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今、もう一度、あなたを信じるということ。/戸田真琴


 何かが起こる前の日の夜、私は、これまでのことを思い出していた。

 明日になったら火を燃やそう。これまでで一番大きいといいな。少し前に、たくさんの悲しみと怒りを乾燥した花束をつくるようによりあつめて一つの世界を作ろうと写真作品を作った。飯田さんと話し、被写体になってくれた3人の女の子たちと話し、「Golden Dust」という世界をつくった。その撮影の中で、膝下くらいの高さの火を燃やした。私たちはノートの切れ端に、自分を傷つけた人たちの名前を書き、それぞれを内緒にしたり打ち明けあったりしながら、ひとりずつ、火にくゆらせた。ぼうと燃え移る火は小さくともまぶしく、なんだ、何かを燃やしてしまうことってこんなに簡単なんだ、と思った。
私も、友達も、皆、傷ついていた。女として生きていることによる苦痛は、どうやっても避けられない災害のようだった。自ら立った覚えのないステージの上にいつの間にか立たされていて、客席から石を投げられているけれど、その理由をどうやって探しても見つからず、何がほんとうなのかもわからず、ただ額に伝う赤黒い血だけが現実であるような、そういう種類の苦しみだった。石は度々紙に包まれていて、理由や改善点を探してそれを広げてみても、そこには「弱そうに見えるくせに生意気だったから」「思い通りになると思ったのにそうじゃなかったから」「セックスの誘いを拒否したから」といったような、本当に反省のしようがないことがつらつらと書かれているのだった。

 焚き火というのは案外厄介で、燃え尽きるまで誰かがそばを離れずに見守り続けなくてはならない。燃焼後の炭も、ただのごみとしてではなく専用の処理の仕方があって、それは決して安全でも簡単でもない。ほんとうに火を燃やしてみるまでは、つめたい水をたくさんかけたら火が消えてすべてがまっさらになり、大丈夫になるものだと思っていた。実際には違って、燃え始めたら最後、待っているのは複雑で面倒な作業だった。一度燃え始めたものは燃え尽きるまで燃やすほかなく、無理に消そうとすれば物凄い量の煙が出てあたり一面がもやの中に沈んでしまう。一度燃え始めたら、けっして元の通りには、戻れないのだ。

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私たちは、怒りという燃料に火をつけてしまうことを、ずっと恐れていたのかもしれない。怒っていることを、傷ついていることを、隠し通せばうまくいくことがたくさんあった。隠し通すことさえ苦しくなると、そもそも傷ついているという事実自体をなかったことにしたり、笑い話にしてそこらじゅうにばら撒いたりした。引き攣っているだけの頬を、笑顔が一番だね、と言われる、それが「うまく生きる」ということなのか、と思う度、その悲しみの矛先は他の誰でもなく、自分自身の肉体に向かうほかなかった。どうして私の魂は、この器に入って生を受けたのだろう。……どうして自分の肉体を、憎まなければいけないのだろう。

 傷ついたことを誰かに話せるようになったのも、それを表現に昇華しようと思ったのも、それだけで、かなり大人になったな、と思う。苦しみを分かち合い、その苦痛は、どんな心象風景になるだろうと考える。人には肉体のビジュアルの他に魂のビジュアルというものがあって、私の場合、それがずっと釣り合っていなかった。想いも、言葉も、考えてきたことも、美学も、何がゆるせなくて何を愛しているのかも、私の魂の語ることすべてが、私の肉体を一度経由することによって、歪んで伝わるしかなくなってしまう。
それならば、今見た悲しみの風景は、あの気高く美しい怒りの獣たちは、流した涙の雪解け水のような透明さは、燃え盛った火の粉が星のようにきらめいたことは、そういう全部の悲しくて嬉しい人生のシーンは、どこへいくのだろう。誰かにこれを、見せてやることは、ほんとうにできないのだろうか。

 私が、私の身体で吠えても仕方のないことを、可視化して君の目に写せたら、何かが変わるだろうか。誰かが私を撮った写真には、その写真の目的として都合のいい姿だけが大抵の場合正解とされるが、そうではない可能性として、私には心当たりがあった。ごくたまに、肉体の造形を超えて、魂のすがたが写真に写っている、と感じることがあったのだ。そういう写真を撮ってくれたのが、飯田エリカさんという写真家だった。

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