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神様のボート・感想



神様のボートを読んだ。私にとって2作目の江國香織の小説だった。1作目はホリーガーデンだった。




江國香織の小説は基本的に平坦に感じる。努めてそうしているのかはわからない。絵本を読んだときの、「〇〇がありました。△△はその〇〇をみて、こう思ったのです。…」のような起伏を感じない緩やかな文字列に見える。そして必要な情報を必要なだけ書き連ねている。それはまるで母・葉子の娘・草子に宛てた手紙のように。なので基本的にはとても読みやすいのだ。すんなりと物語が頭に入ってくる。神様のボートは、葉子と草子の2人の視点で物語が進んでいくが、混乱することは一切ない。



それ故に恐ろしさもある。その平坦さが読者にも伝染して、母の狂気がすんなりと受け入れられてしまう。幼い草子がそれを簡単に受け入れてしまったようにだ。何年も前の、「どこにいても見つけだす。」という"あのひと"の口約束を信じて、いつ会えるかも、どこで会えるかもわからない人のために幼子を抱えながら延々と旅を続ける母。あったものは想像上の箱に仕舞ってしまえばなくなることはない、と言いつつあのひとのことは決して箱にしまわず、現実と地続きで考えている母。ことあるごとにあの人を持ち出してきて、その存在を祝福する母。正直言って、不気味だ。しかし私たちは最初のうちはその不気味さにピンとこない。それが当たり前のように描かれ、葉子も草子も何一つ疑っていないからだ。私たちは草子の自我の成長とともに母の狂気を理解していく。




しかし草子は少しずつ現実に自分の将来を見出していく。母の語るあのひととのエピソードの真偽を疑いはじめ、終いにはイカれてるとまで感じるようになる。そして草子は、母・葉子に現実を見て生きるように訴える。草子の目から見た母の行動はとてもじゃないけど受け入れられるものではなくなってしまった。


終盤、草子が泣きながら、「ママの世界にいられなくてごめんなさい。」と言う場面がある。この言葉を聞いて葉子は止まってしまったビデオテープのように顔面を硬直させてしまう。娘が、母の世界にいられないと申し出るのは、決別するのと同じぐらい苦しいことだ。子供にとって世界の全てだった母親が、成長するにつれて世界の一部になっていく。地続きだった母と子はやがて一個体ずつの他人になっていく。それに気がつかない、もしくは気がつこうとしない母親にそれを気がつかせる役目を、その子供本人が務めなくてはいけないというのはあまりにも惨たらしい。まるで臍の緒を子供自ら断ち切るかのようだ。本来はお互いに段階を経て、徐々に距離を離していくものだと思うから。





母と娘というのは、時折とても難しい関係だなと感じる。その心理的距離が何よりも近しい存在なのだ。それは性別が同じであることも関係してくるのだろう。かくいう私も母とも確執に悩まされていた時期がある。母が好きだったからこそ、私の母だと思ったからこそ、上手に受け入れられなかった。母とは死別してしまったので今更どうこうできるものでもないが、最後、私は抱きとめることしかできなかった。あれが正解だったのだろうか。言葉を尽くせば、もう少し詳しくお互いの世界をすり合わせることができたのだろうか。それも傲慢な気もするが。




きっと私はこの小さな箱に大切にしまわれた二人の物語を、今後の人生で何度か読むことになるんだろう。それがどんなタイミングかはわからないけれど。「骨ごと溶けるような恋」をした後の私も読むかもしれない。



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