まりりんさん論―美とエロースのプリンセス
わたしは、これを詩だなと思ひました。
さう思った背景には、これを書いたまりりんさんのイメージがあります。
綺麗だけど可愛い。
これは、わたしとしては、
淑やかといふ枠の中で女であることを精いっぱい発揮しよう
とするからだと思ひます。
女として魅力を発揮するには、一番簡単な方法は、自由になること。
つまり、脱いでしまふとか、ぎりぎりに露出するとか。
女と生まれた人には、さういふ力が身体に備はってる。
自由になって全部脱ぎ捨てたら、みんなが注目する。すごい影響力を発揮する。
その力が、なんら枠を設けずに、自由に放たれときは、あからさまな性的魅力となり、究極はヌード写真の女といふことになります。
これはこれで魅力があるのでせうが、安っぽい。
高く売れないんです。男性用の週刊誌の綴じ込み付録くらゐ( ´艸`)
これでは芸術にほど遠い。
女の魅力は秘めるはうが、増す。
これは芸術の論理です。
秘すれば花、ってやつです。
「芸術は爆発だ!」って言った人は、確かに、芸術のパワーについては言及してるけど、誤解を生む言葉だとわたしは思ふます。
爆発が芸術だって受け取られたら、やばい。
ピアノを斧で叩き潰して、
音楽を崇高なものだと思ひ込んでゐる社会常識を破壊する「演奏」
として披露することになる。
もし、芸術が爆発で、爆発が芸術なら、これを「音楽活動」として受け取らず、騒音であるとして耳をふさぐやうな人は、芸術がわかってないといふことになります。
実際、二十世紀には、芸術とは既存の社会的価値観や伝統的な表現の枠組み、さらに、芸術を縛る・あらゆる形式を打ち壊すことだといふ人達もたくさん出ました。今も、ゐる。
さういふ芸術家が、女を題材にすれば、ともあれ、なにかの理由をつけて、裸にして並べるでせう。
けれども、裸ぢゃ芸術にはならない。
絵画の裸婦って「女の裸」そのものぢゃないですよね。だって、あれは色と線の中に閉じ込められてしまってる「女の裸」なんだから。
芸術とは、芸術の本質であるパワーを枠に入れて、さうすることによって、そのパワーを美にすること。
力は爆発を阻まれて、或る形をとったとき美になる。
美とは、だから、なんらかの枠、形式の中に閉じ込められやうとして、それに抵抗する力の形態です。
力が、枠そして形式を、打ち破って外に出てしまったら、つまり爆発となってしまったら、もう芸術ではない。わたしは、ダダイズムとかの破壊的な芸術は、それまでの伝統芸術によりかかってるだけ、それを破壊することで自分たちは芸術を創造してゐると思ひこむ、中二の反抗期の男の子みたいな人たちだと思ってます。
もちろん、枠や形式の中に力が納まって得意顔をしだしたら、それももう、芸術ではない。伝統芸術などはさうなる危険が大きい。歌舞伎なんて、何十年も前からさうなってしまってる。外国人に喜ばれて、ちやほやされて、もうあれは、芸術でなくなってる。社会規範に反抗しようといふ、芸術に必須のモチーフを自らの作品の中に見出せなくなってる。
さて、最初の詩の話。
まりりさんさんが何気なく書いた数行が、わたしには詩として聞こえるのは、まりりんさんの存在、人によっては
天然
また別の人からは
女に嫌はれるおんな
などと評される存在だからです。
実のところ、淑やかな女性とは、女性としてマックスにパワフルな人。
こんな女が、もし、私は自由よ、なんて言ひ出して、やりたいことをやりだしたら、どんな魔性の女になったかもしれない。
でも、さうすると、やっぱり、値段が下がる。お姫様ではなくなる。
お姫様こそが女の中の女。
どんな女も、さしもの魔女―あらゆる男性を喰ひまくる―さしもの魔女も、お姫様の前では、急に醜い老婆に見えてしまふ。
お姫様こそが女の中の女。
まりりんさんはプリンセスです。
プリンセスには美的センスがある。
美的センスとは、力(そのままでは爆発するもの)を何かの枠、何かの形式に入れることによって、綺麗なものにする術を知ってゐるといふことです。
その美的センスが、鋭いほど、綺麗に自分を着飾るとしても、どこかしら、可愛らしさが見えて来る。
可愛いといふのは、綺麗な女の余裕から生まれるからです。
そんな人が何気なく書いた数行。
それは、その人の存在、これまでの生活から生まれたもので、
その姿と同じで、どうしたって、魅力を発揮する。
だから、詩になったと思ひます。
詩も、やはり、どんな可憐な詩も、詩であるからには、
その中に爆発する恐ろしい力をもってをり、
しかも、その途方も無い力が、或る形、
言葉といふ形の中で危ふく、爆発寸前の力を撓めてゐるのです。
だから、
詩は、人で言へば、女。
そして、女であるなら、お姫様なのです。
淑やかといふ・尊厳と品性と愛らしさに中に
女のすべての爆発的エロース☆を撓めてゐる、
お姫様なのです
☆エロース Eros : プラトンによると、
達成と欠如との中間にあって
真善美を追ひ求めてゆく衝動力。
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