母親の眼差しと性行動との関連性について

まるで全裸に見えるやうなポーズをきめて
「パンツ、はいてます」
と叫んで笑はせる。

この芸に関しては、西洋人に見せたからウケたのだといふ批評もある。
くはしくは知らないが、白人(そして差別されてゐるといふ被害者意識によって白人社会にしがみつく名誉白人たる黒人)たちが無意識的または意識的に黄色人種をヒトより猿に近い劣等民族とみなす先入観が白人たちを爆笑させてゐるのだといふことでもあるのだらうか?
それなら、まさに、さうだらうとわたしは思ふ。

笑ひといふものは、とりわけ嘲笑の場合、基本的に、人の属性に対する違和感の(非暴力的な)発散だから、笑ひの巻き起こるところに、いはゆる差別偏見があるのは自然なことだ。

わたしがこの芸をとりあげるのは、男と女の非対称性について書くため。

この芸人が女性だったら、同じやうな体型であったとしても、笑ひにはならない。
笑ひ声は漏れるとしても、もはや笑ひ(嘲笑としての笑ひ)に必須な無機的で乾燥した感情は失はなれて、湿って何か臭ふやうな不潔な感情がつきまとふ。性的な下ネタで笑はせる芸が生ごみの匂ひがするのはこのせいだ。

どうしてかうなるかといふと、男の身体で性的な部分は性器だけで、女の身体は全身が性的だからだ。とんでもない言ひ方になるが、女はその顔も含めてすべてが性器である。

ヒトは性器にはどうしても視線を投げる。視線が釘づけになる。
といふことは、
男はつねに女を視る。
そして、女はその存在として視られる存在だといふことだ。

視るといふことは、それがそれとして存在することを認めること。

少し話が飛ぶが、ヒト(を含め生物)の意識が無いと宇宙は存在できるのだらうか?宇宙は、それを認識する意識無しでも存在してゐるのだらうか?
宇宙のことはわからないが、ヒトは他者の眼差しによって存在に入る。

無人島や人類が滅亡した世界でたった独り残された人にしても、「私は存在してゐる」と感じるためには、自分を視る他者の視線に頼ってゐる。
この視線は赤ん坊を見つめた母親の視線だ。

この視線の先に誰かがゐて、それが自分だとわかったときから「私」がこの世に生まれてくる。
ヒトは母体から、母親と分離した肉体として生まれたあと、母親のこころから再び母親と分離した「私」といふこころとして生まれなればならない。

「私」を生み出すのは、母親の眼差しである。

ヒトが他者の視線が無いところでも「私」でゐられるのは、母親の眼差しを内在化させてゐるからだ。「私」を客観視してゐるその視線の源は、こころにインストールされた母親の眼差しだ。

母親もヒトであるから完全ではない。けれども、平均値として
good enough(ほど良い)motherであれば、
「あなたは生きてゐていい」
「あなたはあなたであっていい」
といふ眼差しを送って「私」を生み出しくれる。

さて、女の身体はそれ自体が男にとって性器であるから、男の視線が常にまとはりつく。
そして、男はパンツを脱いだり、或いは、女性なら一度は出会ったことがあるだらう・あの情けない露出症者にならない限り、女の視線はもらへない。

母親からの眼差しが、自己肯定感に満ちた「私」を生み出してゐれば、次のやうに予測される。つまり、
①女は男の視線を集めて自分の存在感をたぐり寄せようとはしないだらうし、
②男は女からの視線を求めて性器を見せる機会、つまりはセックスをひたすら求めることはないだらう。

ひらたく言へば、赤ん坊のときに無条件の愛に満ちた眼差しを受けて「私」として生まれ出たヒトは、女にしろ男にしろ、性的なことがらに関しては穏やかでほどほどであるといふことになる。
女なら性に関しては淑やかな女性となり、男なら一人の女を愛することで性的な欲望に関してはなんとかやりすごせる(遊びとしてのセックスは酒のやうに楽しむとしても配偶者の心を乱す愛人などは敢へてつくらない)男性になるだらう。
白人たちの性行動と対照させると淡泊とすら見えてくる。
白人は肉欲的で、日本人は好色である。

だが、今や、家族とは夫婦と子供だけから成り立つものとなってゐて、母親はたった一人で赤ん坊を育ててゐる。これは、母親となった女には、血縁地縁の女たちが群れ集ひ、母親を中心にして共同保育してきたヒト科のヒトといふ動物にとっては想定外の事態である。

そんな事態であるから、さっきの文は、次のやうに言ひ替へるべきかもしれない。

白人は肉欲的で、日本人は好色だった


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