神道に関するメモ―「神や仏」「神様仏様」はなぜ混じってしまってゐるのかについて


わたしは神社神道には疑問を感じてゐる。
神社は社で、依り代としての家屋だったはずだ。今は、そこが神道テーマパークとなって人が集ってスピリチュアルごっこをしてゐる。

伊勢神宮を中心とした神社神道が成立したのは、大宝律令の『神祇令』の制定によるものだ。コミュニスト風にいってみれば当時の「支配階級」が密教としての国教として整備したわけで、明治政府の国家神道と同じ理由から作り出されたものと言へる。

密教としての神道が必要だったのは、顕教としての(国際社会に向けた看板としての)仏教を日本化、つまりは日本教にするやうな深層の文化が必要であったからで、言葉による教義を持たない原始神道は、まさに、文化の深層に日本文化の岩盤として存在する文化だった。
かうして本地垂迹といふ離れ業によって、日本は仏教を鎧にして、儒教を中核する中華文明に抵抗した。そして、アジアのどの文化も中華文化に呑み込まれて溶解してゆく中で、かろうじて日本文化の同一性を失はないですんだ。
四大文明の世界に「日本文明」が誕生した。

明治維新のときに国家神道をつくりだしたのは、西洋列強国に侵略され植民地化されないためには西洋的な独立国家になるしかなかったからだ。
西郷たちは天皇の子供を京都の御所から拉致して、天皇を国家統治の機関にするために、王権神授の・西洋の王様に仕立て上げた。

かつて、大君が大王(だいおう)を名のり、さらに中国皇帝にならって天子を自称して天皇の称号を自らの肩に付けるやうになったのと、同じ理由だ。つまり、異質な文化文明からの(物理的、従って結果的に精神的でもある)侵略に対抗するための国内統治が必要で、それは徹底した中央集権体制でなければならなかった。

中華文化の渦の中で、当時の日本の政権担当者たちは、日本固有の神道を使って仏教を変容することによって、日本の文化を独自のものに保ち、当時の国際社会(すなはち中華文化を基盤にした各種の文明)の中で自立と独立を維持しようとした。
そのころの神道は、神道といふ名前も無い、中華文化などから見たら未開なアニミズムでしかなかった。神道といふ名前は漢籍から取られ、日本書紀で初めて記載された。
現在、神道といふ名前でわたしたちが視ているものは、たいていは、なんらかの宗教である。それでも、その奥にはまだアニミズムは生きてゐるやうだ。それは、日本列島には山があり、そのほとんどが人跡未踏だからで、さういうことの他に、本来の神道である原始神道がまだ生きてゐる理由は無い。熱帯雨林の奥に、人類を五日六晩ですべて滅ぼすウィルスを抱いた神々がまだそこに生きてゐるのと同じ理由だ。

かくて木の葉舟のやうな日本文化は漢籍の渦潮の上でクルクルと廻りながらも、決して沈むことなく、明治維新を迎へた。
そして、今度は、この木の葉の舟に西郷たちが国家神道といふ醜い岩を入れようとした。

もろちん、木の葉舟は沈んだ。

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