かかはる―関はる・係はる・拘はる
多文化共生社会を築くための方策の一環として、外国人にもわかる簡単な日本語にしようといふ動きがすでに始まってゐるらしい。
日本語は、わたしの見解では、すでに着物を縫い直してワンピースにしたやうに簡略化されたものであるから、簡単にするのは簡単だと思ふ。
さうした流れの中で、キラキラネームに使はれる漢字のやうに、見慣れない言葉や表現が小説などで使はれて、それが文学の証拠といふことになるだらう。
ひらがなにすれば簡略化だと思はれるが、さうでない場合もある。
例へば、「かかはる」には漢字を使った表記として、関はる・係はる・拘はるなどがある。
漢字には意味があるから、それぞれの漢字によって、「かかはる」は拘束され、限定され、さうすることで文脈にふさはしい言葉の力を発揮する。
けれども、詩などに於いて、むしろ、一つの意味に限定されず、「かかはる」といふ音とひらがな文字の姿によってこそ、或る意味を表現できる場合がある。
そのときは、漢字を用ゐず、「かかはる」と書く。
書くこともできる。
これは、素晴らしいことだ。
かうした議論のときにはいつも証言に立たされる萩原朔太郎氏。
「ふらんす」をフランスや仏蘭西にしてしまふと、この詩は死ぬ。
水色の窓に寄り掛かりて
我一人嬉しき事を思はむ
五月の朝の東雲
心若草の萌へ出づる心任せに。
このやうに漢字で書けるから、どれをどうひらがな(カタカナ)にするかが選べるのだ。
日本語は素晴らしい。
素晴らしかった・・・のだ。
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