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【短編小説】過去から来た共犯者

 中学校を卒業して以来、五年ごとに同窓会を開いている。今年で四回目。県外など遠方に住む者も帰省していて出席しやすいだろうという配慮から、お盆休みに開かれてきた。
 三十代になると、会社で重要な仕事を任されたり、子供のことで手間が増えたり、何かと忙しくなる。それもあって、回を重ねるごとに、同窓会の幹事を引き受けてくれる者がいなくなる。おまけに、今回は幹事の一人である安西に急な仕事が入ったせいで手が足りず、会場の予約が遅れてしまった。
「今年の新人のクレーム対応がマズくてさ。代わりに俺が、取引先に頭を下げて回んなきゃいけなくなっちゃって……。やっと仕事も評価されるようになったのに……」
 何度となく安西は愚痴っていたが、幹事の仕事を手伝っていた俺にとっては、手間が増えた分、暇が潰れて好都合だった。
 どうにか適当な会場が見付かったものの、開催日時がお盆休みの最終日である八月十六日の日曜日になってしまった。若い頃とは違い、連休の最後の日は家でのんびり過ごしたいと思うものだろう。案の定、出席率は二割ほどだった。
「二次会はカラオケです」
 安西が二次会の参加者を確認している。午後四時から始まった同窓会は、予定通り二時間ほどで終わった。明日が連休明けという人が殆どのようで、二次会の参加者は少ない。
「今回も、及川悟は来なかったな」
 人数の確認を終えた安西が、俺にそっと話しかけてきた。「まぁ、来られても困るんだけどさ」そう言って含み笑いした。
 冗談半分で言ったのだろうが、俺の心はにわかに疼いた。
 中学三年生の時、及川悟はクラスでいじめにあっていた。クラス全体が何らかのかたちで、それに加担していた。
 きっかけを作ったのは、クラス会長の俺だった。はじめは渋っていた副会長の由香里も、次第に同調するようになっていった。
 それは、思った以上の成果があった。
 そして、俺自身の心に禍根を残した。
「では、二次会の会場に移動します」
 安西の掛け声で、会場からロビーに出る。八月だと、この時間でもまだ外は明るく、街の人通りは少なくない。そのしかめっ面が、昼間の暑さの名残を語っている。
 不意にクラクションの音がして、そばの交差点に目が向いた。歩いていた中年男性が、信号が赤に変わったのに気付かずに横断歩道に出かかったらしい。キョトンとした表情のまま、慌てて歩道に戻った。ワイシャツにネクタイをしているところを見ると、仕事だったのだろうか。世間は連休だというのに。暑さも重なって、周りが見えていなかったらしい。汗を拭ったハンカチを落としてしまい、通りすがりの人達が薄い嘲笑を浮かべる。
 及川悟に再会したのも、八月の暑い日だった。そのうえ、俺は精神的に疲弊していた。
 だから、俺は受け入れてしまったのだ。今になって考えれば、バカげているとしか思えない彼の提案を。「俺が何とかしてやる」という誘惑に負けて。
 今まで開かれた中学の同窓会に、及川悟は一度も出席したことがない。彼が今、どうしているのか誰も知らないだろう。
 及川悟は、俺が経営する小さな会社で働いている。下っ端のダメ社員として、俺には出来ない仕事を代わりにこなしてもらっている。
 
 クラス委員だったこともあり、俺と由香里はいつも二次会にも顔を出していた。今回もそのつもりだったが、実家に預けてきた二人の娘を引き取りに良くため、由香里は先に帰ると言い出した。
「遅くなると迷惑になるだろうし。あなたも明日から仕事なんだから、あんまり遅くならないでね」
 そう由香里にたしなめられた。どこかから「伊藤家はかかあ天下だな」という声が聞こえてきて、笑いの波が起こる。
「せっかくだから、お前もゆっくりしてきたらいいじゃないか」
 妻へのねぎらいのつもりで言ってみたが、由香里は「私も明日から仕事だから」と、親しかった同級生たちと帰ってしまった。
「伊藤くんは優しいんだよね。ウチの旦那なんて、ご飯の用意をして欲しいから早く帰ってきてくれって、それだけだよ。由香里が羨ましいわ」
 二次会に参加する女子の一人が口火を切り、周りの女子たちも後に続く。
「ウチの旦那も、家事なんて全然しないわ。私だってパートの仕事があるんだから、少しは手伝ってくれたっていいのにねぇ」
「子供の相手をしてくれるだけでも、ずいぶん助かるんだけどさ」
「同窓会の時くらい遊ばせてもらわないと、やってられないよ」
 そんな会話とともに女子グループが二次会に向かう。その後を、俺たち男子グループがついていく。
 一歩外に出たとたん、暑さがまとわりつくように全身を包みこんできた。しばらく歩いただけで、ワイシャツの中に残っていた涼感が汗に変わっていく。前を行く女子たちのお喋りが、急に鬱陶しく思えてきた。
 俺のクラスはお喋りな女子が多かった気がする。夏休み前の放課後、及川悟の隣の席の女子が友達と話しているのを、俺は耳にしてしまった。期末テストの数学で、彼が満点を取ったと。彼女たちはそれを槍玉に挙げ、無責任な中傷で盛り上がっていた。あの時、俺がその場に居合わせなければ、火に油を注がなければ、歪曲して吹聴しなければ……。
 高校受験への不安や焦り、部活動や委員会での最上級生としての立場、学校生活の中で鬱積していたもののはけ口を、誰もが求めていた。それが及川悟に向けられた。俺が向けさせた。
「家ではかかあ天下でも、お前は会社では一番偉いんだから羨ましいよ」
「俺なんて、会社でこき使われて、家では家族の顔色を見ながら小さくなってなきゃならないんだぜ。嫁の両親と同居なんてするもんじゃないな」
「自分より仕事の出来ない奴に使われるくらいなら、会社を辞めて独立してやる! って思っても、実際にはなかなか出来ないし。さすがは元会長だな」
 中学校を卒業して、もう二十年ほど経つ。今でも、クラス会長だった俺と副会長だった由香里が結婚したことを、ちょっとしたラブストーリーとして茶化す者がいる。会社を辞めて独立した俺を羨ましがる者もいる。どちらも、きっと他愛無いものなのだと思う。大人になると、学生の頃のように定期的にイベントがやってくることもなくなる。そんな日常に小さな話の種を見付ければ、それを咲かせてみたくなるのだろう。
 人の気も知らないで……。
 由香里の両親と最後に顔を合わせたのは、何時だったか。年末年始は仕事を理由に挨拶にすら行かなかった。お盆休みは同窓会の幹事の仕事を手伝うという理由で、仕事以外の時間を潰した。今年は、安西の分まで準備に忙しかった。おかげで、ご無沙汰している引け目からも逃れられた。
「じゃぁ、二次会はこれでお開きにします」
 安西の声で、皆が帰路につく。以前なら三次会、四次会まで開いていたこともあったが、年齢がそれを止めさせるようになった。体力的にも、立場的にも。
「真理子たちが話してたんだけどさ」
 二人で駅まで歩いく道すがら、安西が話しかけてきた。人通りがなくなった歩道に、時おりエアコンの室外機が熱を吐き出す。
「何年か前に会社で、ほかの部署なんだけど、不正か何かの責任を取らされて辞めた人がいたらしいんだ。それが及川じゃないかって」
 俺はあやふやに頷いた。居酒屋の脇にある室外機の振動と熱に、俺は眉をひそめる。
「アイツ、高校はどこに行ったんだっけ?」
「さあなぁ」
 俺は生返事で欠伸をした。気だるそうに振る舞いながら、足を速めた。
「頭は良かったと思うんだけど」
 その通り。彼は経験から学び、同じ失敗を繰り返したりしないだろう。俺のように。
 ようやく駅前の交差点に出た。歩行者信号が点滅しているのが目に入る。俺は「電車に間に合うかな」と呟きながら走り出した。安西も慌てて横断歩道を渡る。
 タクシー乗り場で安西と別れた。彼が乗ったタクシーが見えなくなったのを確認して、俺は携帯電話を取り出した。時刻は午後九時を過ぎたところ。
「あんまり遅くならないでね」
由香里の言葉が頭に浮かんだが、それを振り払って俺は電話した。
「こんな時間に悪いんだけど、今から行ってもいいかな?」
 遠慮がちに尋ねると、拍子抜けするほどあっさり「構わないぞ」と返された。
「俺一人だし、気兼ねすることはないから」
 運転手に及川悟のマンションの住所を告げ、俺はタクシーの後部座席に体を預けた。
 
 空いた幹線道路を走る。黄色の点滅信号が頭上を過ぎていくたびに、何かの警告に背いている気がしてくる。それでも、引き返そうとは思わない。過去から逃れたくて、中学生の及川悟を消したくて、俺は大人になった彼に会いに行く。
 三十分ほどで及川悟のマンションに着いた。仕事以外で会社の人と顔を合わせるのは都合が悪いからと、彼はわざわざ離れた所に引っ越した。
 階段を上る時、いつも見慣れた車が目に入る。及川悟がいつも通勤に使っている古い軽自動車。周りの車と比べると、明らかに見劣りする。
 築浅のこのマンションは新興住宅地の奥にあるせいで、夜は静かなものだ。足音を立てることにすら気が引けてしまう。
「早かったな」
 ドアを細く開けて、及川悟が小声で言う。俺を部屋へ招き入れ、そっとドアを閉めた。
「今日、中学の同窓会じゃなかったのか?」
「ああ、その帰りだ」
「さっさと帰らなくていいのか? 明日から連休明けで仕事が始まるんだろ」
 俺は何も言わず、曖昧な笑顔を返した。
「社長様も、いろいろ苦労があるみたいだな。とりあえず座ってくれや」
 俺は促されてソファーにかけた。
 調度品が少ないせいか、相変わらず部屋は雑然とした印象がない。本棚に並んでいる投資関係の本が少し増えたか。金融相場は多くの人の心理が反映されて動くから、それが面白い。短期間で大きな利益を得るなら、暴落した時こそ狙い目だ。そんな話を彼から聞いた覚えがある。実行したことはないが。
「俺は酒は飲まないんでな」
 及川悟は緑茶のペットボトルを二つテーブルに置き、先にそれを開けた。礼を言って、俺も蓋を開ける。
 お互い一息ついたところで、「同窓会、お前も来ればよかったのに」と俺は言ってみた。
及川悟は苦笑した。
「いじめてた奴が来たって、気まずくなるだけだろ。俺が来ることなんて、誰も望んじゃいないさ」
「そんなことはないだろ」
 つい強く否定した俺を見て、及川悟はあからさまに溜め息をついてみせた。
「お前、いつまで昔のことを気にしてるつもりなんだ?」
 俺は黙った。及川悟は諭すように続けた。
「いつも言ってるだろ、もう昔のことは忘れていいんだ。今の俺は、お前のおかげで良い思いをさせてもらってるんだし、何も気にすることはないんだぞ」
 大学を卒業して、俺は地元の中堅企業に就職した。これから成長が見込める会社に入り、自分自身も成長したい、そんな想いで就職先を選んだ。しかし入社して数年経ち、それなりに責任のある立場になってみて落胆した。何か問題が起こるたびに、都合の悪いことを上から押し付けられる。年上の者や勤続年数の長い者が、大卒というだけで立場が上になった俺を妬み、足を引っ張る。地元では名の知れた企業も、内情はこんなものかと嫌気が差した。
 それでも仕事をしていく中で、取引先の者と個人的に親しくなることもある。いろんな方面にコネも出来る。このまま身動きが取れないでいるくらいなら……そう考えて、俺は独立した。
 小さな会社ではあるが一国一城の主だ、これからは好きに仕事をしていける。そう思ったのも束の間、たった十人ほどの従業員しかいなくても、人が集まれば差が生まれる、摩擦が起きる。
労働を提供して収入を得るという点では皆同じだが、個人の能力には違いがある。こなせる仕事内容やその量、それに対する報酬、そういうものの差から生まれる不満や嫉妬。責任の押し付け合いや足の引っ張り合い。そのせいで滞る業務が、業績にまで影響を与えかねない。これでは前の会社にいた時と変わらないじゃないか。
 そんな時、及川悟と再会した。
 俺は、職場の空気に愛想を尽かせて辞めていった者の代わりを探していた。及川悟は仕事を求めていた。ハローワークの前で、少し立ち話をした。お互いにわだかまりがあるはずなのに、俺には懐かしさのほうが勝った。別れがたくなり、昼時には少し早かったが食事に誘うと、意外にも乗ってくれた。食べながら話をしているうちに心が次第にほぐれ、つい自分の現状をぼやいてしまった。
 すると、及川悟はこんな提案をしてきた。
「もし、お前と同じ給料がもらえるんなら、俺が何とかしてやる」
 今でも時々思い出すことがある。その度に、あんなバカげた提案を受け入れたことを後悔してしまう。もし八月のやけに暑い日でなければ、俺が精神的に疲弊していなければ……。
 いや、自分でも判っている。
 及川悟の提案を受け入れた本当の理由は、彼への罪悪感だということを。
 時間は過去を忘れさせてくれる。でも、記憶が消える訳ではない。心の底に沈んでいたものが、彼との再会で舞い上がり、次第に俺の心を濁らせた。
 彼の提案を受け入れよう。過去を償う良い機会じゃないか。そうすることで、由香里との関係も変わってくるかもしれない。そんな思いも、彼の提案を受け入れるほうに心を傾かせた。
「明日から仕事なんだから、あんまり遅くならないでね」
 ふいに由香里の言葉がまた頭に浮かんだ。二人で他愛ない話をしているうちに、一時間ほど過ぎていた。ペットボトルはとうに空になっていた。
「帰るんなら、車で送ってやろうか?」
 時間も時間だ。俺は、及川悟の言葉に甘えることにした。
 部屋を出て駐車場に向かう。俺は、見慣れた古い軽自動車に近付いた。
「そっちじゃない、こっちだ」
 及川悟は、隣にとめてある高級輸入車のドアを開けた。
 
「どうせだ、夜のドライブと洒落こもうぜ」
 及川悟が言い出した。俺は止めなかった。
 車は高速道路に入った。エンジンの回転数が滑らかに上がっていくのが判る。加速する感覚がシートから背中に伝わってくる。すべてに上質感がある。これも、及川悟が言っていた「良い思いをさせてもらっている」ということの一つなのかもしれない。
「もう昔のことは忘れていいんだ」
 そうも言われた。それは本心からに違いない。時間が薬として効くことはあるだろう。
 しかし、それは万能薬ではない。
 学校行事があるたびに、クラスのまとまりの無さを担任教師に指摘されたが、俺にはどうしていいのか判らなかった。口ばかりの担任教師が無責任に思えた。多数決で俺をクラス会長にした級友を恨んだ。隣にいてくれる由香里を相手に、クラスメイトや担任教師への憤りを吐き出した。
 前の会社に対して抱いていた不満、会社を辞めて独立する、そんな話をしていた俺が、中学三年生の時と重なって見えてしまったのかもしれない。新しく会社を作るから手伝って欲しいと頼んだ時、由香里はそれを断った。
「あれ、海浜公園じゃないか?」
 及川悟に言われて顔を上げた。遠くに、港湾をはさんで東西の両岸をつなぐ大橋がライトアップされているのが見える。
東側と西側を行き来するための路線バスは、遠回りで時間がかかる。港の拡張工事が行われてからは尚更で、地元住民から都合が悪いという声がたびたび上がっていた。結局、国と県の予算で橋がかけられ、その周りも海浜公園として整備された。今では県内の観光スポットの一つとして定着している。
俺と由香里も、結婚する前には何度も出かけた場所だ。あの頃は、過去の苦い思い出が二人を引き付けあっていると思っていた。同じ過ちを犯したもの同士、一緒にいることで心が癒されると信じていた。
 ライトアップされた大橋を見つめながら、俺は二人が共有していたものを思い出してみた。それらは、互いの心をつなぐ大橋にはならなかった。目の前をガードレールの支柱が流れ去っていくたびに、大切だと思っていたものも消えていく。
「何キロ出してるんだ?」
 百キロにしては、景色の流れが速すぎる。
「お前、俺のマンションに来てから、ずっとシケた顔しているからさ」
 さらにスピードをあげたのか、次第に視野が狭くなっていく気がする。
「少しは目が覚めたか?」
 俺は何も答えなかった。横目で及川悟を窺うと、ただ真っ直ぐに前を向いているだけだった。
「この時間なら、会社の連中と鉢合わせなんてこともないだろう」高速道路をおり、俺の家の近くのコンビニの駐車場に入った「副会長に見られたらマズいからな。悪いが、ここから歩いて帰ってくれ」
 俺が礼を言って降りようとすると、及川悟に呼び止められた。
「ケーキでも買っていったらどうだ?」
 結婚した頃、俺と由香里は1LDKのアパートに住んでいた。贅沢できるほどの余裕はなかったが、たとえコンビニのケーキでも、向かい合って食べれば笑顔になれた。二人で同じ未来を描けた。
 由香里はケーキにはレモンティーが合うと言い張った。俺が何と言おうと譲らなかった。そんな些細な言い合いをしながら二人で笑っていた。たいして広くない部屋にいた頃のほうが、気持ちを共有していられた気がしてならない。それを幸せというだと、今なら判る。子供が生まれ、ローンを組んで家を買ってはみたものの、どこか味気なく、なのに誰もいない空間に安堵してしまうのが虚しい。
「コンビニのケーキも悪くないぞ」
 そう言い残して、及川悟は帰っていった。
 テールライトが交差点を曲がり見えなくなると、とたんに辺りは寂しくなった。
「あんまり遅くならないでね」
 由香里の言葉がまた頭に浮かぶ。手ぶらで帰るのも気が引けて、俺は店に入った。
 
 思ったより種類があって迷ったが、『新製品』と書かれた二個入りのチョコレートのショートケーキを買った。
 小さなレジ袋を下げ、家まで歩く。足取りが重いのは、熱帯夜のせいだけではないだろう。汗ばんできた不快さよりも、自分の家が見えてきたことに溜め息が漏れた。
 そっと玄関を開けた。
 ちょうど由香里が階段から下りてきたところだった。俺が「ただいま」と伏し目がちに言うと、「おかえり」と言いながら由香里は階段の電気を消した。
「子供たちが、やっと寝付いてくれたの」
 玄関の鍵をゆっくり締めながら、由香里の言葉を背中越しに聞く。
 実家で祖父母と遊んでもらった娘二人が、家に帰ってきてからもはしゃぎ続けて、なかなかベッドに入ってくれず困った。そんな話をしながら、由香里がダイニングに入っていく。
「うちの両親には、あなたは会社のことで忙しくて、顔を出す暇もないって言ってあるから」
 由香里のその言葉に、感謝ではなく後ろめたさを抱いてしまう。なぜ相手の気遣いが優しさと思えなくなったのか。
「あら、珍しいわね」
 俺がテーブルの上に置いたケーキを見て、由香里は意外そうな顔をした。
「たまには、いいかと思って……」
「子供たちが寝た後で良かったわ。もし私たちだけでケーキを食べたと知ったら、あの子たちが何て言うか」
 そう言って由香里は笑った。
「今度は、ちゃんと子供たちの分も買ってきてね」
 食器棚の開き戸をあけ、由香里がレモンティーの缶を取り出した。
「ペットボトルのを買って来ればよかった」
 俺が言うと、由香里は手を振った。
「少ないお湯で作って、氷を入れたグラスに注ぐの。そうすればすぐ出来るから。ゆっくり冷やすと色が白っぽくなることがあるし」
 コンロと冷蔵庫、流し台の前を行ったり来たりする由香里の後姿は、どこか楽しげだ。それが、記憶の中の何かと重なろうとする。
「お待たせ」
 ケーキとフォークが乗った皿、冷えたレモンティーのグラスが俺の前に置かれた。
「今度は子供たちの分も買って来てって言ったけど、子供たちに隠れて二人でこっそり食べるのも、ちょっと楽しいかも」
 由香里はケーキにフォークを入れた。
「やっぱり子供たちの分も買ってきてね」
「どっちなんだよ」
 俺は笑った。笑いがこみ上げてきた。
「あなた、仕事のせいで家にあんまりいないんだから。またにはケーキでも買ってきてあげないと、そのうち、あの子たちと口も聞いてもらえなくなるかもしれないわよ」
 俺もケーキを口に運んだ。チョコとクリームが何層にも重ねあわさったショートケーキは、柔らかいのに弾力がある。結婚した頃に二人で食べていた、スポンジにクリームや果実がのった程度のものとは違っていた。
「あなたは父親なんだから」
 そう言った由香里も、もう母親であり妻なのだ。クラス委員の二人が向かい合っている訳じゃない。
「夏休みが終わる前に、四人で旅行にでも行くか」
 時間が薬として効いていなかったのは、もしかしたら自分だけではないだろうか。そう思ったら、意外なほどあっさりと言葉が出てきた。
「どこがいいかしら。明日、あの子たちにも聞いてみるわ」
 目の前には、嬉しそうにケーキを頬張る由香里がいる。俺も真似をしてケーキを頬張った。頬を膨らませた笑顔が向かい合う。
 確かに、コンビニのケーキも悪くない。
 
 お盆休みが明けた、その日。
 女性の従業員が一人、辞めさせて欲しいと社長室に怒鳴り込んできた。引き止めてはみたものの、けんもほろろに断られた。
 原因は及川悟らしい。彼を呼んで話を聞いた。
「あいつ、俺をいじめようとしないだ。だから、俺のほうから嫌がらせして排除した。そういうことだ」
 この会社における及川悟の役割。それは、皆の嫌われ者になること。日常的に小さな失敗を繰り返し、周りの足を引っ張り迷惑がられ、一方で他の人のミスを指摘する。そして、皆の共通の敵となり、いじめられることで会社内の人間を一つにまとめていく。それは、仕向ける者の立場が違いはしても、俺が中学三年生の時にやったことと同じだった。
「俺をいじめようとしない真っ当な奴は、この会社には必要ない。そういう人間なら、他にいい仕事が見付かるだろう。心配すんな」
 及川悟にとっては何でもないことのようだ。
「そりゃあ、ああいう真っ当な人間が揃っていればベストなんだがな。多くの人間は、敵がいる方が仲間意識が生まれて協力的になるもんだ。お前も知ってるだろ」
 皮肉なことに、及川悟が来てから社内の仕事の効率は上がった。彼にだけは揚げ足を取られたくないと思うからか、クレームも減った。
 とは言え、こんなやり方、俺にとっては受け入れがたい。
「こんな事をしていて、嫌にならないのか?」
 俺の言葉に、及川悟は「はぁ?」と表情を歪ませた。そして、俺の机の上に置いてあった書類をよけ、そこに腰を下ろした。
「俺はな、前の会社でもこの方法で上手くやってたんだよ。なのに、俺にまとめ役を任せた上司が、この方法は認められないとか言い出して、終いには全て俺が仕組んだことだってばらしやがった。そうして自分は善人面して会社に残り、俺は会社にいられなくなって辞めるしかなくなったんだ」
 彼は、苦虫を噛み潰したような顔でそう言ったかと思うと、今度はほくそ笑んだ。
「でも、今回は違う。俺もお前も前科持ちだ。俺たち二人なら上手くいく」
 俺は怯んだ。昔のことは忘れていい、そう言ったじゃないか。
「そんな顔すんな。お前を脅すつもりはない。言ったろ、俺はお前のおかげで良い思いをさせてもらっているって。昔のことは忘れていい。全て俺一人でやる。だから、お前は今まで通り、見て見ぬふりをしていればいい」
 及川悟は表情を崩してそう言った。まるで聞き分けのない子供に何かを言い聞かせるように。
「いや、見て見ぬふりだと、お前の社長としての資質を疑われかねないな」及川悟はちょっと考え込んでから言った。
「お前も、たまには俺をいじめてくれよ」
「いじめてくれって……」
 たとえ仕組まれたことでも、お互いにとって残酷じゃないのか。
「お前、判っているのか?」及川悟はまた表情を歪ませた。「こうでもしなきゃ、この会社が回るわけないだろ。しっかり現実を見ろ。覚悟を決めろ」
 及川悟は俺の肩を掴み、大きくゆすった。
「お前は社長なんだぞ」
 その時、社長室のドアがノックされた。「書留が届いたんですが」と言いながら、事務員の女性がそっとドアを開いた。
 マズい!
 俺たち二人の関係がバレたら、この会社は終わりだ。咄嗟に及川悟の方を向くと、彼は泣きそうな顔でペコペコと頭を下げ始めた。
「本当に申し訳ありません! 次からはちゃんとやりますから、どうかクビにだけはしないで下さい! この会社を辞めさせられたら、もう生きていけません! 次からはちゃんとやりますから! どうかクビにだけはしないで下さい!」
 及川悟は、ただのダメ社員に戻っていた。俺が困惑するほどに豹変していた。
 必死に頭を下げる及川悟の横を、事務員が通り過ぎる。俺に書留を手渡し戻っていく彼女の表情は、あきらかに侮蔑を含んでいた。普段は愛想のいい彼女にすら見下されるように振舞う、それも彼の手の内か。
 たいした三文芝居じゃないか。なのに目が離せない。観ていると変わっていくのだ、俺の中にいる中学生の及川悟が、目の前にいる大根役者に。
 これこそが、償いの証じゃないか。
「いい加減にしろ!」
 俺は机をバンと叩いて叫んだ。椅子が倒れそうなほど勢いよく立ち上がり、及川悟を睨みつけた。
「お前は自分のしたことが判っているのか!」
 またコンビニでケーキを買って帰ろう。今度は子供たちの分も。そしたら、また由香里と笑顔で向き合える。父親として子供たちと一緒にいられる。家族旅行が待っている。
「及川!」
 俺は怒鳴った。事務員の彼女だけでなく、社長室の外にまで聞こえるほど大きな声で。
「給料分の仕事はしてもらうからな! ちゃんとやれよ! 頼んだからな!」

(終)

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