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【短編小説】インドへ行こう!

 私が田村菜美子と最初に出会ったのは、高校二年の一学期の終業式の日だった。私は日直で、放課後、学級日誌を提出するために職員室に入ろうとすると、田村菜美子と彼女の父親が、担任教師とともに出てくるところだった。
 ごくろうさん、と学級日誌を受け取った担任教師は、田村菜美子を転校生だと紹介した。父親の仕事の都合で、東京から引っ越してきたのだという。シワひとつない白い夏用の制服に、長い黒髪が印象的だった。女子はみんな同じ格好をしているのに、不思議と彼女だけが上品に見えた。生粋の田舎者の私だったから、都会から来た転校生という勝手なイメージを、彼女に重ねていただけかもしれないけれど。
「学校の中を案内してあげたらどうだ?」
 担任教師に言われ、私は田村菜美子と二人、校内を廻った。各学年の教室がある南館と、選択科目で使う教室がある北館、それをつなぐ廊下、体育館、売店、食堂。四角で構成されている校舎の案内はあっさり済んだ。担任教師から仰せつかった時には、面倒ごとが増えたと煩わしく思ったが、終わってみると、味気ない思いを転校生にさせてしまったのではないか、と気が引けた。
 私は、田村菜美子を屋上に連れて行った。北館にあるそこは、屋上というより非常階段につながる通路のようなスペースで、教室よりも一回り小さいくらいの広さしかない。教室から離れているから、わざわざ休み時間を過ごすために足を運ぶ生徒もいない。そのくせ、視界を遮る高い建物がないおかげで、眺めだけは掛け値なしに良い。数少ない田舎の特権だ。
「時々、ここに撮りに来るんだ」
 私は制服のポケットからケータイを取り出し、遠くは海まで見える景色を撮影した。方向を変えて何枚が撮ってみるが、あとから見直すことはない。いつも同じ風景が目の前に広がっているのだから。
「なかなかの撮影スポットでしょ」
 そう言いながら田村菜美子を窺うと、彼女は風景ではなく、風景を撮影する私をじっと見ていた。
 
「二学期から、ウチのクラスに転校生が来るんだって」
 バイトに行く前に昼食を取ろうと思い、学校近くのショッピングセンターに寄ると、フードコートに恵理ちゃんがいた。私がさっき会った転校生のことを話すと、恵理ちゃんは驚いた。
「珍しいよね。私、同じクラスに転校生が来るのって、初めてかも。どんな子?」
「可愛いっていうより美人かな。なんていうか、垢ぬけてた」
 都会育ちは違うね、と恵理ちゃんは笑った。
 暑くてあまり食欲もないので、私はサンドイッチで簡単に済ませた。恵理ちゃんはカツカレーを食べていた。ジャージ姿ということは、午後から部活なのだろう。恵理ちゃんは中学時代からバスケ部だ。
「この暑いのに、よくカツカレーなんて食べるよねぇ。インド人じゃあるまいし」
「来年こそはインターハイ出場! って盛り上がっているからさ。地区予選で負けた後は、いつもそうなんだ。インターハイに出た試しはないんだけど。とにかく夏休みの間だけは練習がハードだから、しっかり食べておかないと」
 恵理ちゃんがカレーの乗ったカツを口に運ぶ。お皿にはまだ半分くらいカレーライスが残っていた。私はケータイを取り出し、それを撮った。
「こんなの撮って、どーすんの?」
「いや、何か、美味しそうだったから」
 敦美も食べる? と恵理ちゃんが、スプーンですくったカツを私の前に差し出した。反射的に口を開けそうになったが、やっぱりいいや、と私は断った。
 私の手元を覗き込んだ恵理ちゃんに、新しいの買ったんだ、いいなぁ、と言われ、私は胸のあたりがくすぐったくなる。買い換えたケータイは、以前のものよりメモリーの容量が大きい。思い付いた時に撮らないと、空いたままのメモリーはなかなか埋まってくれない。
 他のテーブルにも、私たちのような学生が何人もいる。公立高校は、今日が一学期の終業式。見慣れない制服姿もいる。まわりのお店も、以前来た時とは少し違っていた。
 
 自宅の最寄り駅で、私は電車を降りた。くすんだベージュの駅舎は、それなりの図体をしているけれど、私が幼かった頃にあった賑やかさはもうない。隣接していたスーパーは閉店し、その後、コミュニティーセンターに改装された。改札横に軒を連ねていた飲食店も、今は一軒が残るだけで、テナント募集と書かれた張り紙が、何年も前から並んでいる。廃れていく様は、商店街も似たようなものだ。
 ただ、同じ町の中心部にあっても、郊外のショッピングセンターに客を取られたまま先細りしていくだけの商店街と、近くに郵便局や銀行の支店、病院なんかもあり、ある程度の人の行き来が見込める駅前とでは、立地条件という点では違うのだろう。でなければ、駅の向かいにコンビニが出来ることもなかっただろうし、私も自宅近くでバイトを見付けることはできなかったはず。
 学校から許可証をもらっているから、モグリでやってる子みたいにコソコソする必要はないのだけれど、知っている生徒や教職員に会うのはやはりバツが悪い。ここなら、そういう心配がない。いや、そういう意識すら無くなっていたから、今日レジに立って最初に応対した客が田村菜美子だったことに、私は素直に驚いてしまった。
「次に会うのは、二学期の始業式の日だと思ってたよ」
 昼食には遅く、夕飯には早すぎる、そんなエアポケットのような時間帯は客も少なく、自然と意識が目の前の人に向いてしまう。
「近所に住んでるの?」
 私が尋ねると、中央小学校の近くのアパートに入居したのだという。まだ引っ越しの荷物が片付いておらず、食事の用意もままならないので、コンビニに調達に来たのだと彼女は言った。
「部活とか、決めてるの? 前の学校では、何部だったの?」
「美術部だったんだけど、受験のこともあるし……。どうしようか迷ってる」
「だったら、バイトしない? この店、いつも人手不足だから、店長が喜ぶよ」
 そうねぇ、と田村菜美子は首をかしげたが、結局、その場でははっきりとは答えず、当たり障りのないやり取りをして店を出ていった。
 その後も、田村菜美子は何度か店を訪れた。最初こそ身構えていた私だったが、バイトしない? 考えておくよ、という会話が沈黙を埋めてくれる安心感を覚えると、楽に接することができるようになった。ひと月も過ぎると、彼女も生活が落ち着いてきたようで、本当に私と同じコンビニでアルバイトを始めることになった。
 それから半年後。
 バイトが終わって帰り支度をしている時、田村菜美子は私に言った。
「こんな何もない田舎で暮らすなんて、私は嫌。東京の大学に進学する」
 朝はまだ布団から出るのに覚悟が必要だけれど、交差点の角に除雪車が山にしていった雪はほとんど融け、午後の陽光にまどろんでしまいそうになる春休み特有の緩んだ空気の中、私はその言葉を聞き流した。確かに、四月になれば私たちは三年生、受験生になる。けれど、菜美子がどこの大学に行こうが私には関係ない。一緒に塾に通おう、と言われた時も、私は地元の大学で充分だから、と笑って返してしまった。
「あなたはこんな田舎で終わる子じゃない。勉強の面白さも判っていない。私がそれを教えてあげる。敦美はやれば出来る子よ」
 春休みの間、そんな話を聞かされる度に、私は冷ややかな笑いを浮かべていた。
 私だって、華やかなものに憧れたことはあった。でもそれは、自分が手を伸ばして掴める所には存在しない。そんな世界が自分の日常になることもない。それが理解できないほど私はもう子供じゃない。田舎生まれの田舎育ち、だから田舎で面白おかしく暮らしていく。そんな人生が、きっと自分にはお似合いなのだ。
「もし一学期の間に成績が上がったら、私と一緒に塾に通うと約束して」
 そんな一方的な言い分にも、判った判った、と私は生返事をするだけだった。
 けれど、三年生の一学期が始まり、昨日までは何もなかった教室の私の机に、化学の炎色反応の一覧が書いてあるのを見て、菜美子は本気で言っていたのだと私は思った。
 
リアカー(Li赤) なき(Na黄) K村(K紫) 動力(Cu黄緑) 借ると(Ca橙) するもくれない(Sr紅) 馬力(Ba緑)で行こう!
 
 ご丁寧に覚え方まで書いてあった。菜美子以外、誰がこんなことをするものか。
 張り切ってるねぇ、目指せ東大、などとまわりのクラスメイトからは冷やかされ、テストの時には消さないとカンニングになるぞ、と先生には咎められたが、油性ペンで書いてあるので消しゴムでは歯が立たない。
「クリーナーのスプレーは用意してあるから、心配ご無用」
 休み時間、菜美子に問いただすとそう言われた。暇な時に眺めてるだけでいいから、と澄ましている。
「あれ、いつまで書いておくつもり?」
「敦美が覚えるまでよ」
 ウチの学校は、ほとんどの生徒が大学か短大に進学する。私だって成績は良いほうではないが、頑張れば地元の大学くらいには手が届く、と思う。炎色反応の覚え方だって頭に入っている、はずだ。
「敦美の場合、テストの前に付け焼刃で覚えて、その後は使わないから忘れちゃうんだよ。それがここ半年、私が敦美を見てきた感想。違う?」
 私は俯くしかなかった。テストが返ってきた時には、次こそはと教科書や参考書を開くのだけれど、その意欲は三日と続かない。
「でも大丈夫。私が何とかしてあげる。成績が上がったら一緒に塾に通うって約束、忘れてないよね」
 授業が始まるよ、と菜美子に急かされ、私は自分の席に戻った。腹が立って見ないようにしていても、目につく所だからどうしても気になって、授業が終わるまでの間、机の上に書かれた内容を何度となく読み返してしまう。おかげで、曖昧だった記憶が正しく刻印し直されるまでに、一日あれば充分だった。放課後、書いてあった内容を空で言ってみせると、菜美子は満足げに微笑んだ。
 これで机の上はキレイになる。そう思っていたのに、次の日学校に来てみると、炎色反応が書いてあった所に、今度は日本史の歴史年表が書いてあった。もちろん、語呂合わせの覚え方も一緒に。
「家に帰ってからも眺められるように、ケータイで撮っておくのもいいよ」
 菜美子は言うが、とてもそんな気にはなれない。
「菜美子は、何がしたいワケ?」
「言ったでしょ、勉強の面白さを教えてあげるって。自分がやれば出来る子だって、敦美自身に判って欲しい」
「それ、本気で言ってるの?」
「当たり前じゃない」
 菜美子はむくれてみせ、私は溜息をついた。
 その後も、基本的な英語構文、代表的な化学の反応式、日本のことわざと同じ意味の英文、元素の周期表の覚え方、歴史上の人物の名前と似てない似顔、などなど、私が覚えたかどうか確認して、菜美子は内容を書き換えていった。しかも、新しく書かれた内容だけでなく、以前に書いてあった内容も忘れていないか、抜き打ちで試される。
 それで成績が上がるとは思えないし、そもそも私が付き合う理由もない。にもかかわらず、訊かれて答えられないのが癪で、机の上に書かれた文字を何度も読み返す。気にしないようにしていても、つい目が行ってしまい、仕舞いには気にしないようにしている事を気にしている状態から解放されたくて、席についた途端から見てしまう。
「もう少し内容を多くしたら、もっと点数が取れたんじゃないかな」
「多すぎたら、逆に覚えられないんだから」
 一学期の中間テストは、ちょっと点数が上がった。でも、偶然の範疇から出るほど明確な違いはない。それよりも、私がもどかしく思ったのは、机暗記で覚えた内容が、実際のテストの問題に素直に当てはまってくれないことだ。
「化学のさぁ、密閉された容器に入っている窒素の圧力を求めよって問題。状態方程式は覚えてるし、ちゃんと数字も代入したのに、なんで間違ってんのぉ」
 あれね、と菜美子は薄く笑った。テストが返された日の昼休み、私は売店で買った焼きそばパンをくわえたまま、不貞腐れて中庭のベンチに寝転がっていた。隣では菜美子が、登校途中に買ってきたおにぎりを食べている。
「問題文に、窒素の状態が書かれてなかったでしょ。すべて気体だったら、敦美のやり方で正解。でも実際の計算値は蒸気圧曲線より上にあったから、一部は液体だったってことになる。それだと、正解は蒸気圧曲線と同じ値なの」
「だったら、それも机に書いておいてよぉ……」
 私は起き上がって、菜美子が持っているおにぎりに嚙みついた。ご飯と焼きそばの味が混じるのも構わず、ペットボトルの紅茶で喉に流し込む。どうにも釈然とせず、残っていたペットボトルの中身も一気に空にして、私は大きく息を吐いた。
「悔しい?」
 菜美子が問いかけてくる。
 悔しい、と答えそうになって、私は躊躇った。
 テストの結果に悔しがっている、そのことに私自身が戸惑った。
「悔しいのなら、教科書とか参考書とか開いてみればいいんだよ。自分の手で」
 バイトを終え家に帰ってから、私は化学の参考書を開いた。状態方程式と蒸気圧曲線について書かれたページに、昼休みに菜美子から聞いた内容が載っていた。自分が知らなかったのは、ほんの一部分。もし、これを覚えていたら……。
 もうすぐ全国模試がある。来月末には期末テストが始まる。その結果を見て、菜美子はまた何か言ってくるに違いない。それが気に入らないというのもあるが、何よりじっとしていられない。
「私、塾に通いたいんだけど」
 次の日の夕方、食卓を囲む家族の前で、私は言ってみた。子供が勉強することを、親は当然喜んでくれると思っていた。なのに、両親は食事の手を止め、しばらく困惑した表情を浮かべていた。弟は食事の手を止めることなく、姉ちゃんが冗談を言うなんて珍しいな、と言っただけだった。
 自らの足で入塾の手続きをしに行くなんて、思ってもみなかった。自分の中に、向学心、があるなんてことも。
 
 私が同じ塾に通うことを知ったとたん、菜美子は私を抱きしめた。本当は塾より予備校のほうがいいんだけど、これだから田舎は、と菜美子はぼやきつつも、私の決断をもろ手を挙げて喜んでくれた。これは本来、両親の反応ではないのだろうか。
 何だか負けた気がして面白くないが、とにかく、これで机の上は綺麗になる。と思っていたら、どの参考書にも載っている受験生にはお馴染みの英文が、次の週には三角関数とその証明に変わっていた。
「塾に通うかどうかなんて関係ないよ」
 菜美子は顔色ひとつ変えずに言う。いちいちクリーナーで消しているせいか、私の机の右上あたりだけが不自然に白っぽくなっている。
 塾に通うために、シフトを減らして欲しいと私は店長に頼んだ。その代わりに新しいバイトの子が入ってくる。仕事を教えるのは私の務めだ。
「高校生?」
 一年生、と私が答えると、後輩だと思って可愛がってあげなさいよ、と菜美子は涼しい顔をする。私は頬杖をついて、溜め息を漏らした。窓から見える桜の木は、とっくに花は散り、葉桜と呼ぶのも躊躇われるほど青葉が茂っている。紺色で埋まっている教室に、夏服の白が目につき始めるのも間もなくだ。
「私に教えた時みたいにすればいいんだよ」
「菜美子みたいに、覚えが早い子だと楽なんだけど」
 菜美子がバイトを始めた頃のことを、私は思い出そうとした。それは、自分がバイトを始めた頃の経験を思い出すことに等しい。
 覚えることは幾つもあるが、まずはレジの業務だけを、一人で確実に出来るようになってもらう。一つのことをしっかり身に付ければ、自信もつくし気持ちに余裕も生まれる。そしたら他の仕事にも、落ち着いて取り組めるようになる。一度に多くを教えるのは、むしろ覚えきれずに不安にさせてしまうだけだ。菜美子のような子ならまだしも、私みたいな覚えの悪い子は……。
「授業が始まるよ」
 チャイムが鳴り、菜美子が言った。私はゆっくりと体を起こし、菜美子の顔を見た。
「私に教えた時みたいにすればいいんだよ」
 そう言い残して、菜美子は自分の席に戻っていった。
 
 期末テストの結果を見なくても、問題を解いている段階で、私は自分の学力が上がっているのを実感していた。回答欄の埋まり方が、今までとは違っていたから。もっとも、菜美子に追いつくにはまだ力不足なのも判っている。同じ塾に通っていても学習内容に差があるから、机を並べて仲良くお勉強なんてことにはならない。
 バイトでも菜美子と一緒になることは以前からあまりなかったが、私が塾通いのためにシフトを減らしてからは、尚更なくなった。
 夏休みに入って五日目、珍しく菜美子と顔を合わせた時、思わずふざけて抱き合ってしまった。溜まっていた何かを、ここぞとばかりに発散させるように。
「今日さぁ、時間ある?」
 私は菜美子に尋ねてみたいことがあった。
「あるよ、あるよ。愛を深め合おう」
 また、意味もなく抱き合って笑った。ケータイでメッセージのやりとりはしていたが、直接会ったほうがノリが判りやすくて楽しい。
 バイトが終わった後、私たちはコンビニの前のベンチに座り、空腹を紛らわすために買ったものを口に放り込み、飲料のペットボトルを開けた。
 帰宅ラッシュが過ぎた駅前は、人通りもまばらになっている。陽が沈んでから時間が経っているのに、体にまとわりついてくる空気は、まだ昼間の暑さを残したままだ。残念ながら、我がコンビニにはイートインがない。だったら、エアコンのある自宅にさっさと帰るべきなのだろうが、せっかく菜美子と顔を合わせたのに、そのまま帰ってしまうのはもったいない気がした。
「菜美子式暗記術、あれ何で思いついたの?」
 ここ最近、私がずっと疑問に思っていたことだった。菜美子式暗記術という言葉に、発案者本人がプッと噴き出した。
「前の学校にいた時に、私に告白した男子がいてね。付き合って欲しいって言われて断ったんだけど、諦めが悪いのか、私の机にいろいろ書いてきたのよ。自分はこれだけ勉強が出来るんだ、ってアピールしたかったみたいで」
 菜美子はペットボトルの麦茶を一口、二口飲んで、また口を開いた。
「あの頃は、私もたいして勉強は出来なかった。授業もあんまり聞いてなかったし、ボーっと机の上の落書きみたいなのを眺めてた。でも毎日そうしてたら、何となく頭の中に内容が残ってて、それがテストで役に立つって気付いてからは、家でもやるようになったの。テレビの横とか、トイレとか、目につく所にメモ書きみたいなのを貼って眺めてる。覚えようなんて頑張ると続かないし、内容も多すぎると覚えられない。試行錯誤の末に、今のかたちになったってワケ。私、自分の部屋の机にも貼ってるもの」
「そういうのって、ガリ勉みたいな人がやってるんだと思ってた。牛乳瓶の底みたいなメガネかけた男子とか」
 ガリ勉、という言葉に、昭和、と呟いて菜美子は笑った。彼女の成績が良いのは知っていたが、それは意外だった。
「そのうち、勉強自慢のその男子より、私のほうが成績が良くなってね。でも、勉強に時間を割くことで、部活との両立が上手くいかなくなってきて。それに、私の成績が上がったことを、まわりの友達があんまり良く思ってなかったみたいで……。いろいろ面倒臭くなってきたところに、お父さんが転勤するって話が出てきたの。単身赴任の予定だったんだけど一緒について来ちゃった。おかげで、せいせいしたわ」
 でも田舎って本当に何もないわね、と菜美子は付け足した。
 自ら勉強に取り組むようになって、日常が変わって見えるようになった気がする。自分に必要なもの以外が、どうでもいいと思えるようになった。どうでもいいものに手間と時間をかけるのが、無駄に思えるようになった。今までの自分が、ずいぶん無駄を抱えていたのだと思えてしまう。
「敦美はなんで部活をやらずに、バイトに励むようになったわけ?」
 今度は、菜美子が尋ねてきた。私は、えーと、と言ってからペットボトルのジュースを飲み、聞いても笑わないでよ、と前置きをして話し出した。
「私さぁ、高校に入ったらスクールアイドルをやりたいって思ってたんだ。ほら、アニメでそういうのあるじゃない」
「敦美って、意外に乙女チックだったのねぇ」
 そう言っただけで、菜美子は笑わなかった。笑わなかったが、憐れんだ顔をした。そんな顔されるのも嫌だなぁ、と私が言うと、菜美子はゴメンと頭を下げて、それから、と私を促した。
「でもさ、高校に入ってもスクールアイドルなんていないし、そういう活動をしてる部も同好会もなくてさ。やっぱりアニメと現実は違うんだって思ったら、自分から何か始めようって気持ちにも、勉強を頑張ろうって気持ちにもなれなくなって……結局、バイトになっちゃった」
 私は照れ笑いを浮かべた。
「バイトしてるとさ、懐には余裕が出来るから、あんまり値段を気にせず買い物できたり。だから、ちょっと大人になった気分になれたり、そこそこ満足感が得られたり」
「それでケータイを新しいのに買い換えて、でも使い道がないから、景色の写真を撮っていたと?」
 苦笑する菜美子に、えへへー、と私はおどけてみせた。
「私も同じようなことしてたわ。高校に入学したお祝いに新しいケータイを買ってもらって、興味もないのにいろいろ撮ってた。最初に敦美に会った時、屋上で写真を撮ってるのを見て、この子も自分と変わらないなって歯がゆくなったもの」
 そう言えば、最近、屋上に行っていない。ショッピングセンターのフードコートにも。恵理ちゃんたちは利用しているのかもしれないが、私には縁遠い場所になってしまった。
 入学して半年も経つと、それぞれの日常が固定化されてくる。その違いがはっきり出てしまうのが、放課後の過ごし方。部活に入っているクラスメイトと一緒に過ごす時間が少なくなっていく、その物足りなさを紛らわせたくて、私は菜美子をバイトに誘ったのだけれど、今はそれを申し訳なく思っている。
「バイトをするって決めたのは私だから、敦美が気にすることじゃないよ。それに、コンビニのバイトって一度やってみたかったし、勉強の合間のいい気分転換になったわ。でも二学期からは勉強に専念するために、バイト辞めなきゃだよね」
 菜美子の言葉に、私は頷いた。それは店長にも伝えてある。とは言え、バイトを辞めた私に、いったい何が残る?
「勉強があるじゃない」
「言ってくれるねぇ、ガリ勉」
 明日、全国模試のために登校しなければならない。それが待ち遠しい。気合を入れるために、朝食はカレーにしたいくらいだ。
「朝からカレー? インド人じゃあるまいし」
「バカにすんなぁ。インドの人はなぁ、九九は19×19まで暗記してんだぞぉ」
 はいはい、と菜美子は腰を上げた。私も空のペットボトルやドーナツの包みを片付ける。
 翌日は、普通に朝食をとって家を出た。昨日はカレーで気合をなんて思っていたのに、買い置きのレトルトパックが無くなったからという理由で、母に一蹴された。だったら、バイトの帰りにコンビニで買って来れば良かったでしょ。不満顔を作ってみせた私への母のその一言はもっともで、昨日は自惚れて調子に乗っていただけなのだと思うと、私は自然と冷静になれた。
 学校に着くと、私の机はキレイになっていた。試験前はいつもそうだ。次にどんな内容が書かれるのかと思っていたら、二学期になってもキレイなままだった。私は透明なデスクマットをちょうど良い大きさに切って、自分の机の上に置き、覚えたい内容を書いた紙をその間に挟んだ。多くを書かないように心がけて。
 
「じゃーん!」
 九月の中頃、夏休みに受けた全国模試の結果が渡された。志望校の欄には以前と同様に、地元の大学と短大、そして、菜美子が志望している東京の大学の名前を記入した。地元の学校はA判定だったが、東京の大学はB判定だった。
「でもさ、前はC判定だったんだから、成績は上がったってことでしょ」
「確かにね。今まで勉強してなかった分、伸びは早いかも」
「この調子なら、すぐにA判定だねぇ」
「油断すると、つまずくわよ」
 浮かれた気分でいるのを窘められたが、結果が良くなるとやっぱり嬉しい。
 久しぶりに屋上に行ってみた。去年の夏、菜美子と初めて会った時は、ストーブを背負っているみたいにただ熱いだけで、刺すような日差しに眩暈がしそうになるのを、転校生の前だからとやせ我慢していた。なのに今は、この田園風景のずっと向こうに東京があって、その先にアメリカやイギリス、インドなんかもあるんだと、自分が知っているより世界はもっと広くて、その気になれば何処にでも行けるのだと、そう思える。
「東京は逆だよ」
 私が指さすのを見て、菜美子は言った。地球は丸い、一周回れば東京に着く。私が言うと、菜美子は呆れた顔をした。
「それにしても、敦美ってインド好きよね」
「だってさ、インドに行くと価値観が変わるって言うじゃない」
「その話、私も聞いたことあるけど。本当かしら」
「行ってみれば判るよ」
 一緒に行こう! と私は倒れこむように菜美子に抱き付いた。暑苦しいから離れて、と菜美子が言うのも構わず。
「ちょっと大丈夫? しっかり立ってよ。敦美、熱中症なんじゃないの」
 そう、私は熱中症だ。菜美子と勉強に、私は熱中している。

(終)

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