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【短編小説】横断歩道の向こう側へ
日曜の朝、いつもより少し遅い時間に起きてダイニングに入ると、母がテーブルの上に置かれた折り込みチラシを眺めていた。
「あら純一、おはよう。すぐに食べる?」
俺が頷くと、母は食事の用意を始めた。俺はテーブルにつき、母が眺めていたチラシを見た。鮮やかなお節料理の写真が載っていた。
年が明けたら、俺は二十九歳になる。いい加減、気持ちの整理をしないと……。
「父さんは?」
「まだ寝てるわ。昨日、自治会の忘年会だったから」
今年のはじめ、自治会長を務めることになった、と憂鬱な顔で告げた父だったが、つつがなくその役目を終えられる解放感からか、ずいぶん酔って遅くに帰ってきた。五十代も中頃、仕事での苦労も少なくないだろう。たまには羽目を外してもいいじゃないかと俺は思ったが、妹の涼子は疎ましそうな顔をして、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。
「涼子は?」
「出かけたわよ、お昼はいらないって言ってたから、夕方まで帰らないんじゃない」
母はそう答えながら、俺の前にご飯と味噌汁、出来合いの総菜を置いた。平日はスーパーでパートの仕事をしている母は、休日の朝食には、しっかり手を抜いた物を出してくる。普段は家族四人共が働いている。だから皆、それぞれに手を抜いている所があったほうが、お互いに気兼ねがなくていい。
二年くらい前まで、俺一人が、家族全員に気を遣わせていた。それは仕方のないことではあったし、今だってその状態が完全に解消された訳ではない。はっきりと言わないが、妹はたぶん彼氏とデートなのだろう。涼子も来年で二十五歳になる。自分の将来について、進めたい話だってあるのかもしれない。もし躊躇っているのだとしたら、その原因は俺以外には思い当たらない。
「俺も、今日は出かけるから」
あら、そう。母はそう答えただけだった。どこに行くのか、誰と会うのか、そんなふうに尋ねてこないのは、やはりまだ俺に気を遣っているからとしか思えない。お昼はいらない、俺はそう付け加えて箸を置いた。
灰色の雲が空を覆っているのが窓から見えた。天気予報が言っていたとおり、今日一日こんな空模様らしい。北陸の片田舎の街は、十二月に入ればいつ雪が降ってもおかしくない。二週間くらい前に初雪が降った時には、十センチほど積もったが、それ以後、あたりが白くなることはあっても、次の日には消えてしまう程度の積雪しかない。自分もまわりも、それを残念がる齢ではもうなくなった。
昨日、陽子から電話あった。明日、県警音楽隊のクリスマスコンサートに一緒に行かないかと誘われた。一緒に行くはずだった友人が、風邪をひいて寝込んでしまったのだという。急なことなので都合がつかないから、と俺は断った。今日は聡美と会うことになっている。だから県警音楽隊の演奏など聞く気にはなれない、などと言えるはずもない。
時計を見ると、もうすぐ九時だった。あまり聡美を待たせるのも悪い。俺は自分の部屋に戻り、手早く仕度を済ませて家を出た。
玄関横のガレージの前で、聡美は空を見上げていた。
「待った? ごめんな」
聡美は、首を小さく横に振った。それに合わせて、肩より少し長い髪が揺れる。久しぶりに会った聡美は、俺の記憶の中にある姿と変わらない。なのに、不思議と子供っぽく見えた。淡いブルーの、襟と袖口のところだけ白いワンピースを着ていた。あの頃のお気に入りの一着だ。
「寒くないか?」
俺が尋ねると、聡美は何も言わず滲むように笑顔を浮かべた。笑い出したいのを堪えているのが判り、俺は肩をすくめて歩き出した。
「車じゃないんだね」
「そんな気分になれないよ」
「どこへ行く?」
どこへ行くべきか、俺はここ一週間ほどずっとそれを考えていたが、思い付くところは決まっていた。とりあえず俺は、自分が卒業した高校に向かった。どこに行くにしろ、聡美の家の前は通りたくなかった。
曜日と時間帯のせいか、田舎町の住宅街は閑散としていた。そこを抜け幹線道路に出ても、平日のような喧噪は見当たらない。安全と秩序を守るためにせっせと働いている信号機の、休日も変わらぬその働きぶりが空しい。
「コンビニだ」
聡美が言った。小学校の向かいにあった酒屋が、三年くらい前にコンビニに様変わりした。大人相手に酒類を売り、子供相手に文房具やお菓子を売る。そんな商売では立ちいかなくなるだろうことは、誰の目にも明らかだった。
「私たちが子供の頃にコンビニがあったら、毎日寄り道してたかもね」
珍しいものを見るように、聡美はウインドウから店内を覗き込んでいる。
聡美は小学校に入学する頃には、同い年である俺も含めて、近所のガキどもにとって姉のような存在だった。それは、たまたま年上の子供がいなかったからというのもあったし、父親を病気で早くに亡くし、母一人子一人で暮らしてきた中で、母親に負担をかけまいと気丈にふるまっていた結果でもあったのかもしれない。父親の生命保険がおりて生活には困らなかったようだが、母親にとっても娘にとっても拠り所となる人がいなくなったのだ。不安がなかった筈はない。
そう思っていた俺だから、少しは頼りにされる存在になりたかったのだけれど、聡美と一緒にいると、ついガキの頃の感覚に戻ってしまう。俺はずっと、それを言い訳にしてきた。
「ちょっと寄っていくか?」
「ううん、いい。買いたい物もないし」
そう言いながらも、近所にコンビニが出来たんだぁ、と聡美は何度も振り返って見ている。そんなはしゃいだ姿に、あの頃のような姉御肌は重ならない。
「もう一度、高校生をやってみたいよぉ」
聡美の声を背中で聞きながら、俺はもう歩き出していた。
電車を降りしばらく行くと、俺と聡美が卒業した高校が見えてくる。
「あんまり変わらないね」
聡美が言った。俺も同じことを思っていた。通っていた頃と違うのは、新しい体育館が出来たことくらいだ。それも校舎の裏側にあるから、正面から見た印象は、聡美が言う通りあの頃とあまり変わらない。
日曜日だから、部活の自主練習をしている生徒が何人かいるだけだ。十二月も中頃になると、世の中全体が年末気分になってくる。学校だって例にもれない。二学期の期末テストが終わってしまえば、冬休みが待っている。
「あの子、受験生だよ。たぶん」
聡美の声に振り向くと、白いマフラーをしたコート姿の女子生徒が一人、昇降口から出てくるのが見えた。手提げかばんから、大きめの封筒の頭がのぞいている。受験願書に間違いがないか、確認してもらっていたのかもしれない。
「卒業して何年も経つのに、この時期に高校に来ると、何だか落ち着かないな」
「私は就職するつもりでいたから、関係なかったけどね」
ごめん、という言葉が、反射的に俺の口を突いて出てきた。何で謝るの? と聡美は笑うが、彼女の心情を考えるとそれ以外の言葉が見付からない。
多くの生徒は、学力が進学先を選んでくれる。俺も聡美もそうだった。成績が平均よりいくらか上にいる者が入る高校。なのに進学校というほどの実績はない。それでも、就職を選ぶ生徒は珍しかった。
無邪気に夢を追いかけていられた時期が、聡美にもあったはずだ。それが大人への境界線が見えてくるにしたがい、母親への気遣いが芽生えてきた。早く母に楽をさせてやりたい、そんな想いが聡美に就職という将来を選ばせたのなら、まだ将来を選べずに進学を選んだ俺が、聡美に対して罪悪感を抱くのも変だとは思わない。そもそも、最初から就職を考えていたのであれば、それ相応の高校がもっと近くにあったのだから。
「ここも変わらないね」
「小さいけど、ここは町が管理している公園だから」
学校の敷地を回るように、二人並んで歩く。道路を挟んでグラウンドの向かいに、小さな公園がある。聡美はそこに入っていく。俺もあとについて行く。
もともと、ここには杉の巨木があり、町が天然記念物に指定したのをきっかけに、まわりを公園として整備した。ずいぶん前に落雷がきっかけで巨木は枯れてしまい、今では写真と説明文が書かれた看板が設置されているだけだ。そんな由来を知らない生徒たちが、放課後の憩いの場として使っている。
恋人として、付き合って欲しい。
卒業式の日、俺は、聡美にそう言われた。そうなれればいいのにと思いながら、結局、俺は何もしなかった。四月になれば、お互いに違う道を歩き出すと判っていても。
「滑って落ちたら危ないぞ」
公園を縁どるように、低い石垣がつづいている。その上を歩く聡美に、俺は声をかけた。昨日降った雪は融けていたが、曇り空の下で、辺りは濡れたままだ。卒業式の日も、こんな天気だった。制服の上にコートを羽織り、マフラーをまいた聡美は、お世辞にも可愛らしいとは言い難かった。なのに俺は、聡美への愛おしさを、その時はっきりと自覚した。
「純ちゃん、ちょっと変わったかな」
俺のほうを振り返って、聡美は石垣から飛び降りた。子供扱いされたようで機嫌を損ねたのではないか。俺は少し不安になったが、聡美は不思議と笑っていた。
「行こうか」
俺が差し出した手を、聡美が握った。卒業式の日の帰り道、聡美がふざけて俺の手を握ってきた。照れながら手をつないで駅まで歩いたことが、今はただ懐かしい。
「軽音部のバンドが、駅前で演奏してたの覚えてるか?」
俺の問いかけに、初デートの時の? と聡美が答えた。
「私が聞いても、あんまり上手いとは思えなかったなぁ」
聡美の言葉に、俺も苦笑いを浮かべるしかなかった。それまでは、学園祭くらいにしか出たことがなかった同級生の軽音部員たちが、卒業を記念してという理由で、ストリートライブをした。春休み、田舎町の駅前で。初めて聡美との関係性を意識しながら出かけた日だった。
「あのバンド、今でも老人ホームとかで演奏してるんだぜ」
「老人ホーム? 慰問みたいなもの?」
俺は頷いた。
「キーボードを弾いてた子が、グループホームで介護の仕事をするようになって、その関係で頼まれて演奏してるらしいんだよ。ギターの安田も、今じゃ町の福祉課の職員だし。商工会のイベントとかにも出てたな。恥ずかしいから見に来るなって言ってたのに……」
気が向いたら見に来いよ、と俺には言ってくれるようになった。
「ロック……じゃないよね?」
聡美に問われ、俺は声を出して笑ってしまった。
「歌謡曲とかだよ。聞いてるのは高齢者だからさ」
そりゃそうだよね、と聡美も笑った。
プロになりたい、彼らがそう言っているのを度々耳にした。高校を卒業してからも、レコード会社が主催するオーディションを何度か受けたと聞いた。だから、今のバンドの有り様は、彼らが望んでいたものとはたぶん違っている。それでも続けている彼らを、俺は羨ましいと思うことはあっても、バカにしようとは思わない。
「電車が来たよ」
ホームに続く階段を上がる。初デートで二人街に向かったこの駅には、もう改札も駅員もいない。日曜日だというのに、ホームには制服を来た学生が何人かいるだけだ。
電車が入ってくる。ホームに満ちていた空気が、ゆっくりとこちらに流れてくる。寒さが頬を撫でていく。
「寒くないか?」
俺は聡美のほうを向いた。笑いを含んだ聡美の顔が、俺のほうを向く。
「純ちゃんは変わったよ。うん」
学生たちの後について、聡美は電車に乗り込んだ。俺も整理券を取る。
寒くない?
高校を卒業した春、そう言ったのは聡美のほうだった。
海浜公園近くの駅で降り、目に付いた飲食店で簡単な昼食をとった後、海岸に向かって歩く。老朽化した港湾の改修にあわせて、港の奥のほうに展望台ができ、まわりに遊歩道などもつくられた。若者のデートスポットとして有名になり、俺と聡美も訪れた。車の免許を取得したばかりで、父親に恐る恐る頼んで車を借りた。聡美を乗せて、最初に来たのがここだった。二十歳を過ぎたころだった。まだ洒落た飲食店などなかった。
「家族連れが多いねぇ」
展望台を見上げながら、聡美が言った。四方がガラス張りの展望台には、手すりに捕まって飛び跳ねる子供や、ケータイで写真を撮っている人の姿が見える。相変わらず若者のデートスポットであることに変わりはなくても、聡美と来ていた頃より平均年齢は上がっている。そのせいか、あの頃より雰囲気が落ち着いていて、居心地がいい。
四年前、二人の想い出のこの場所にあらためて訪れた時、俺は聡美にプロポーズした。この場所を選んだのは俺だったが、俺ではなかった。落ち着かない様子の俺に、聡美は何か察したのだろう。気付けばこの場所に導かれていた。もっとも、それは今思い返せばの話。あの時の俺にそんな余裕はなかった。
「結婚しよう」
聡美と二人でいて、こんなに緊張したことはなかった。渇いた喉にたった一言が貼り付きそうで、変に強く言ってしまった。そのくせ、声が震えているのが自分でも判って恥ずかしくなった。
「うん」
聡美はそれだけ答えて、しばらく遠くを見ていた。十二月の夕方だった。日は沈んで、クリスマス色の街を走る車のライトが、動くイルミネーションのように流れていた。港湾の入り口にある灯台が、規則正しく首を振り、時折こちらを照らしていく。その光を眺めているうちに、早鐘を打っていた俺の心臓も、平常の速度に戻っていく。
「聡美」
隣りにいる聡美があまりに反応しなくなってしまったことに、俺は不安を覚えて名を呼んだ。すると、聡美は次第に肩を震わせ、しまいには声を上げて笑い出し、俺の腕をつかんでコートに顔を押し付けてきた。
「だってさ、照れてニヤケた顔なんて……見られたくないんだもの!」
俺のコートの腕から肩あたりに顔を押し付けたまま、聡美はくぐもった声を上げた。とたん、緊張も不安も、何もかもから解放された俺の心が、表情を崩しにかかってきた。突かれて開いた小さな穴から、勢いよく噴き出した何かのせいで、穴が徐々に大きくなり、最後には全てを崩壊させていくようだった。確かに、俺もこんなヘラヘラした顔を聡美に見られたくない。
きっと俺と聡美みたいな二人が、あたりには何組もいたはずだ。なのに、何も目に入らなかった。そのくせ、すべてが輝いて見えていた。聡美と二人、ふざけながら抱き合ったり、はしゃいで飛び跳ねたり、傍から見たバカげた二人にしか見えないはずだと判っていたけれど、そうでもしていないと、胸の中でピンポン玉が弾けるような抑えきれない高揚感を処理できなかった。同じ気持ちでいることを、一緒に喜んでいたかった。お互いに見られたくないほど崩れた表情だったが、一生のうちで一番の笑顔だったと今でも信じて疑わない。
はちきれんばかりの笑顔でいることに照れながら俯いて、予約していたレストランのディナーに向かった。年末に聡美の母親に挨拶に行き、年が明けたら、改めて結婚までの予定を考えようと話し合った。それは果たされることのないまま、自分一人では次に踏み出すことができないでいた俺は、また聡美に導かれることになってしまった。
「来ちゃったね」
ああ、とだけ俺は答えて、じっと前を見ていた。隣りにいる聡美がどんな顔をしているのか、振り向いて見てみるだけの勇気が俺にはない。決して何も思わない訳ではないのだ。ただ、聡美が事故で亡くなった交差点に立ってみても、体の内側から沸いてくる抑えきれない激情が、今はもう枯れてしまっていることにただ申し訳なくなる。
「ごめんな」
「何が?」
「守ってやれなくて」
純ちゃんのせいじゃないよ。聡美は言って、軽く飛び上がりガードレールに腰かけた。横断歩道を渡る人たちを眺めながら、地面に届かない足を、聡美は小さく揺すっている。
危ないぞ。言いそうになって、俺は口をつぐんだ。言ったら、お互いにバツが悪いだろうなと思った。
休日に一人出かけていた聡美は、横断歩道を渡っている途中、速度をおとさずに左折してきた車にはねられ亡くなった。俺は心が軋むほど恨んだ、運転していた奴を。速度超過の常習犯を野放しにしていた警察を。車を売った販売店や、自動車メーカーをも恨んだ。聡美の分まで、そいつら全てを恨み続けようと心に決めた。しかし、その感情を表に出すことが俺には出来なかった。憔悴しきった聡美の母親を目にしてしまったせいで。
通夜に出た俺に、何の落ち度もないはずの聡美の母親は泣いて詫びた。どうか許して下さい、どうか娘よりも素敵な方を見付けて下さい。両手と額を畳につけ懇願されてしまっては、後先構わず取り乱すわけにもいかない。
自分のことより俺をおもんぱかったのは、夫を失った経験があったからか。それとも、俺が子供の頃から変わらず頼りない人間に見えたからか。娘まで失って、誰よりも辛い立場にあったはずなのに、自分のために涙を流さなかった聡美の母親は、その後精神的に不安定になってしまった。
「あ、雪……」
聡美の言葉が聞こえると同時に、小さな白いものが、いくつか俺の目の前を落ちてアスファルトの上で消えていった。天気予報は曇りだったから、一過性のものだろう。
「そんなに降らなそうだな」
空を見上げている聡美に気付かれないように、俺はそっと息を吐いた。
もしあの時、まわりも顧みず泣き叫ぶことができていたら、俺はもっと早く違う人生を歩み始めていたのだろうか。そんな考えが浮かぶたびに、聡美の母親に申し訳なくなってしまう。
聡美を失ってからというもの、俺は投げやりな毎日を送るようになってしまった。なかなか寝付けず、毎晩酒をあおって布団に入った。休日は昼間から飲んでいた。そのせいで二日酔いになり、仕事に支障をきたし上司に怒られることもままあったが、聡美を失った俺にとっては些細な事にしか思えなかった。
家族は何も言わなかったが、俺を持て余していることは容易に感じられた。そのうち居酒屋に足が向くようになった。そんな生活を二年くらい続けていた。
その日も仕事が休みで、昼間から居酒屋にいた。一人で長居していると、店員に疎まれているのが雰囲気で判る。仕方なく店を出た俺は、ビールの空き缶を持ったまま公園のベンチで酔いつぶれていた。
「山崎君じゃない?」
名前を呼ばれて目を開けると、女性の警察官がいた。マズい、と普通なら思うのだろうが、日々投げやりに生きている者にとって、怖いものなど何もない。それどころか、コイツらが違法な運転を野放しにしていたせいで、聡美を失ってしまったのだ。俺がこうなったのはお前らのせいだ、と罵ったところで、バチが当たる筈はない。
そう思って口を開きかけた俺より先に、相手が名乗った。
「小川陽子って覚えてない? 中学三年の時に同じクラスだったの」
覗き込んできた顔を見ても、知っている相手なのか思い出せない。それは酔っているからというより、彼女が印象の薄い生徒だったからに違いない。それは自分も変わらなかったなと自嘲しながら、声をかけてくる小川陽子を放って、俺はまた目を閉じてしまった。
再び目を開けた時、俺はソファーに寝かされていた。じっとしたまま目に見えるもの、耳に入って来る言葉で、ここが警察署なのだと判り気が引けた。立場上、聡美が亡くなったことを知っていた小川陽子は俺を労わってくれたが、それ以外の警官は明らかに、昼間から酔いつぶれている奴を嘲笑する目をしていた。
俺を擁護しようと、小川陽子が事情を説明した。それがきっかけだった。俺は初めて、自分の中にくすぶっていた感情を表に出した。まわりの警官たちに罵声を浴びせた。小川陽子に窘められ、家まで送ってもらう車の中で、悲しいという感情に涙を流した。みっともない姿を晒したことを恥ながら、その後も小川陽子が連絡をくれるのが嬉しかった。と同時に、中学生だった頃の小川陽子を思い出すと、今の彼女の姿が意外に思えて仕方なかった。それは彼女が警察官だから、という単純なことじゃない。明確な将来を、自らの意志で選んで進んだ。俺はそれを羨ましいと思ってしまった。
聡美を亡くしてからこっち、生きる意味なんて何もないと思っていた。自暴自棄になっていたから、妬み嫉みを抱くことは日常茶飯事だった。なのに、憧れにも似た羨ましいという気持ちを持ってしまうことが、自分でも不思議だった。彼女と一緒にいる時間が長くなるにしたがい、その気持ちは大きくなっていった。
「陽子さんって、どんな人?」
不意に聡美に問われた。
「中学の時、聡美も同じクラスだったことがあっただろ」
「うん。でも、もう昔のことだから。私が知ってる小川さんとは、違う人になってるよ」
純ちゃんみたいに。そう付け足されると、反論じみたことは言えなくなる。
中学生の時からは想像もできない今の陽子の有り様は、意外でも何でもない。俺が知らなかっただけなのだ、自分を幸福にする方法を。自ら選んだ道を歩んでいく、たったそれだけのことを、陽子といるようになって考え始めた。まるで、それを知るために聡美を亡くしたみたいで、俺にとっては皮肉でしかない。けれど、陽子と二人でいる時間がただ続くだけなら、それで構わなかった。都合の悪い感情に見て見ぬふりをしていればよかった。聡美を失った憤りの矛先の一つが警察であるという気持ちに、目をつぶっていれば済んだのだ。
でも、そうもいかなくなった。お互いの関係性が変わろうとする時が訪れた。結婚、という言葉が陽子の口から出た。
二人で過ごした時間の中で、俺は必ずしも好意的に陽子に接してきた訳ではなかった。好意と恨みという葛藤を抱きながら、時には傷付けるようなことも言ってしまった。それでも共に過ごしてきた結末を、悲しいだけのものにしたくなかった。
そんな時、ユカリと名乗る女性と出会った。聡美に頼まれて来たという。
亡くなった人に会わせてあげられる。依頼主は内山聡美、アンタはただ指示に従えばいい。言葉だけじゃない、掴みどころのない容姿にも胡散臭いとしか思えなかったが、確かに今、俺は聡美と会っている。
「ごめんな」
「今度のごめんは、何?」
俺の言った言葉に、ゆっくりと、でも間を置かず聡美は問い返してきた。
「聡美のことは、ずっと忘れないから……」
ずっと忘れない、それは嘘ではない。今でも思い出す、例え陽子と二人でいる時でも、何かの拍子に聡美を思い出すことがある。工作の時間にハサミで折り紙を切っていた幼稚園の教室、集団登校で学校に向かう後ろ姿、合格したら四月からあの制服を着るのだと不安そうに語り合って歩いた帰り道、その制服を着ているのがお互いに当たり前になった毎日……。物心がついた頃からずっと一緒にいたのだ、そんな大した意味がないことだって、忘れられるはずがない。忘れられるはずがないのだけれど……。
想い出の中で輝いていた聡美の姿が、記憶の一つ、一つでしかなくなっていく。
どうか、それを許して欲しい。
「許すよ」
俺は途切れがちに言葉を続け、聡美は空を見上げていた目をこちらに向けた。
「私も、早く生まれ変わりたいしね」
純ちゃんにプロポーズされて嬉しかった。それは純ちゃんと結婚できるからっていうのもあったし、何より、純ちゃんの希望を叶えることができるからっていうのもあったんだ。そりゃあ結婚できなかったのは残念だったけど、もし今の純ちゃんが望んでいることがあるのなら、私はそれを叶えたい。
だから私はここにいるの。だから私は会いに来たの。
例えばさ、もし私が生まれ変わって純ちゃんと再会したとするじゃない。きっと純ちゃんは気付かないけど、それでいい。それでいいから、純ちゃんには幸せでいて欲しいの。陽子さんと二人、幸せでいる姿を私に見せて欲しいの。そのためにも、自分が選んだ道を、幸せだと思える道を歩んでいって欲しい。そしたら私も、こうして純ちゃんに会いに来た選択は正しかったと思えるから。私も生まれ変わって幸せだと思えるから。
「だから過去だけじゃない、純ちゃんが選ぶ未来のすべてを許すよ」
うん、としか答えられなかった。喉がつかえて、それしか言えなかった。足元が滲んで見えた。
「私がいてあげられるのは、ここまで」
ぼやけた視界の隅に、横断歩道の向こうを指さす聡美の手が見えた。俺は俯いたまま歩き出した。はっきりしない視界の上から下へと、白線が一本、一本と等間隔で流れていく。
横断歩道を渡り切り、俺は振り返った。聡美の姿は、もうどこにもなかった。
ありがとな……。
そう呟き、俺はしゃがみこんで泣いた。膝に顔をうずめて、人通りが少なくて良かったと思えるくらい冷静になれるまで、ずっと泣いていた。
次の日、俺は、聡美の実家を訪れた。聡美から聞いていたとおり、聡美の母親は息絶えていた。亡くなった人に会わせてあげられる。ただし、対価として別の誰かの命をもらうと、ユカリに言われた。対価はお母さんの命だと、聡美から聞かされた。
指示された通り、俺は119番と、聡美の伯母に連絡した。聡美の伯母とは、聡美の通夜で初めて会った後も、聡美の母親が心配でこの家を訪れた時に、何度か顔を合わせたことがあった。いつも疲れた表情をしている印象がついて回っていた。
亡くなったかつての婚約者の母親に、その後の自分の身の振り方を報告に来た。事情聴取にそう答え、警察も納得していた。
「もう住む人もいなくなったし。この家は売りに出そうと思っているんですよ」
聡美の母親の葬儀に顔を出した時、聡美の伯母が言っていた。
「結婚なさるんですってね。おめでとうございます……なんて、こんな場所で言うのも変ですよね」
肩の荷が下りたのは俺だけじゃなかったのだと、聡美の伯母が笑っているのを見て思った。出来た嫁になっていたのだろうと聡美を想った。だから、参列者の中に喪服姿のユカリがいても、俺は驚きはしなかった。懐疑心しか持てなかった彼女に、素直に感謝の言葉が出たことも。
「せいぜい長生きしなさいな」
別れ際、ユカリに言われた。
「はい、せいぜい長生きします」
そう言って笑みを浮かべた自分にも、俺はもう驚きはしなかった。
(終)
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