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釘を抜く

2月が終わった。

2月は、私にとって膿出し期間だった。
確定申告や、パスポート更新手続きの際の様々な出来事が重なり、疲れが溜まっていたのかもしれない。

とても穏やかな気分の日もあった。
(特に前回の日記を記したときの私は、紛れもなく穏やかだった)

私は自分と向き合い、今を見つめるようになって以降、一本一本錆びついた心の古釘のようなものが抜かれ、無意味な絡まりも解け、日々が生きやすくなった。

一方、内面がまっすぐになるにつれ、その分、今まで見て見ぬ振りができていた小さな古釘や絡まりが視界に入った。
2月は、新たに表に現れた古釘と向き合うための月だった。


「現状維持」「世間一般の安定」を選び続けていた前職の自分
音信不通であった母のことを向き合わないでいた自分


これらは私が過去に抜いてきた古釘だ。
その古釘は、自分が観測することで「釘を抜く」という次の過程に進める。
というよりも、強制的に進まざるを得なくなる。

自分に素直になると、掃除された部屋の隅に溜まるチリが目につくように自然と自分の「嘘」に気づきやすくなる。

「違和感のある思考や行動」は自分に嘘をついていること。
自分を「正当化する」も、違和感がある思考や行動。
すなわち、自分に嘘をついていることである。

人は、正当化しようとすると、言い訳を言い続ける。
それは多分、脱皮の合図。


2月の私は、何故か自分に沢山言い訳をし始めた。
また、釘を抜くの時期がきたのだ。


私は、ネットであれこれを発信するのが好きだ。
それは全て「承認欲求」か元であり、誰かを救おうなんて動機はない。
SNSは、元々承認欲求を満たすためのツールだ。
私以外の大半もそうなのだろうと、勝手に思っている。


しかし、私の承認欲求を満たす行為が、周りに回って誰かにとってプラスになるのであれば、それは幸せなことだ。
これは紛れも無い本音である。

私の承認欲求を満たす行為が、周りに回って誰かにとってマイナスになるのであれば、それは不本意だ。
これも紛れも無い本音である。

潜在意識で願望実現をした経験や学びを元に、同じことを目指す人にとって有用な情報を流す。箇条書きとかでわかりやすく。

これは多分、需要があること。


中には私の発信で何らかの気づきや安心を得られている人もいるかもしれない。
それを発信することで、私は承認欲求を満たせる。
しかしながら、そういった情報を多く収集することが、その人にとって必ずしもプラスにはたらくとは限らないと言うことを私は身を持って知っている。


「情報が現実を叶えるわけではない」と発信しながら、その舌の根も乾かぬうちにその人たちの目をひくような情報を流している。承認欲求を満たすために。


無限情報収集から実践へ歩を勧め、とっくの昔に現実を動かせたかもしれない人を、私は自分の承認欲求を満たすためだけに、足止めしている可能性がある。

私は、それで本当に得たい欲求が満たせているのか?


2月はそんな、側から見たらちっぽけなことをぐるぐるぐるぐる考えていた。
これまで、気に求めてなかったことがきにかかるようになった。
先月までの私なら「楽しければそれでいいじゃーん!」で終わりそうな話だ。
しかし、2月はこれが解決しないと、楽しくなかった。


2月はそれでもこれまでと同様に自分の経験をもとに、言語化できたものを発信し続けた。
本当に今自分が言葉にしたいから発信するポストもあったが
中には、言い訳をしながら投稿したものあった。


「言い訳」。古い釘がそこにあった。


前者も後者も、内容的には大きな違いはない。
いつも通り、表現だけを変えながら同じようなことをずっと言っている。

後者はその時発信したいと突き動かされるようなものもなく、機械的に情報を発信した時のポストだ。
「この情報を求めている人もいるかもしれないから」
「このポストをきっかけに私の良さを知ってもらいたいから」
そんな言い訳をしていたような気がする。
言い訳をしながら発信した内容は、私の心が入っていない、誰でも発信できるようなありきたりなものに見えた。私が打った文章なのに、誰かのコピーのような。


少し、スピリチュアルに踏み込んだ話をすると
誰かのコピー、誰かが言ったことをわからないままそのまま言葉にしている発信、今はそう思ってない時に発する言葉は何となく非言語で伝わる。
言葉の内容と、それとは別で伝わってくる、書き手のエネルギーというか波動というか、なんというか・・・(言ってる本人もよくわからない)が不一致で、言葉が空っぽなのだ。

私の発信からも、それがわかる人にはきっとわかるのだろう。
同じような発信をを見ると、私はひどく憤った。
それは発信してる人に対する憤りではなく、それと重ねてみえる自分に対する憤りである。

心がはいってないポストをすると、心に膿が溜まり、いつも周りにいてくれる方々に対し罪悪感が出た。私自身を評価してくれる方を疑い、軽んじるようなことをしてしまった罪悪感である。
そして、何よりも、私自身を「情報をぶら下げないと周りから褒められない人間」と見ている自分にとてつもない違和感があった。

「ただ一つ、気をつけなければいけないことがあって・・」
このような一文を文末に添えるアカウントを見ては「これで何を得たいのだ」と考えることはあったのだが、私もまさに同じ穴の狢なろうとしていて、それが嫌でもがいていたのだ。


ずっと言い訳をしながら。


2月に出会った古釘は
自分自身を軽んじながら、世間一般の評価や情報に依存する自分

私はただ、承認欲求を満たしたいのではなく
「本当の自分で」「誇れる自分で」「好きな自分で」承認をされたい。
そんな自分に魅力を感じ、関わりたいと思ってくれる人と縁を繋ぎたい。
これが本当に求めることである。

空っぽの情報で評価されても、目的は達成しないのだ。
私は古釘を抜き、さらにまっすぐに貪欲に欲求を満たす覚悟を持った。



だからと言って、これからこういう発信をします。という新たな宣言をしようとは思わない。
自分がわかってればそれで良いし、言葉にすると嘘になりそうだからだ。

側から見たら3月以降も私は何も変わらないのかもしれない。


ただ私の中ではかなり大きな脱皮であり、今後また現実が変化していくというのは確信めいたものがある。
過去の2本の古釘を抜いた後も現実は大きく変化したからだ。


未来が確定すると、思考が変わり、感情が変わり、行動が変わる


そして現象が変わる


私が段階を経て古釘を一本一本抜いていったように、急に「そうせざるをえない」心境や状況が目の前に訪れる。

前まで気にならななかったことが、目につくようになったのは、頭についてはなれなくなるのは、必ずその前の段階で「内面変化」がある。
内面の変化が終了すると、現状に違和感を覚えるように、押し出されるように行動を促される。そして現実はまた色を変えていく。その繰り返しで、未来に到達する。

全ては自動的に導かれているような気もする。いや、そうだと思う。



余談

この日記を記す前日に、また、氏神様に挨拶に伺った。
まだ古釘が刺さったままだった私は自分に誠実でありたい、頑張りたい、どうか見守っててほしいと、厚かましいお願いをした。
参拝の作法を今一度復習しておいたが、それが仇となり意識しすぎて始終ぎこちなく、神様に笑われてしまったかもなと思った。

住宅地にポツンと建つ小さな神社だが、参拝中の私の後ろには夫婦が並んでいた。
こんにちは、とあいさつするとにこやかに返してくれた。

帰り道、また大きな木と会話した。寒いね。といったら、またすぐ暖かくなるよと教えてくれた。


私はこの街が本当に好きだ。
そしてそう思える自分が好きだ。


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