ショートショート「気の虫」

 しまったと思った時には、男はごくんと口の中のものを飲みこんでいた。
 忙しい仕事の短い昼休み。混み合った定食屋で、やっと順番が回ってきた時には、昼休みの終わりまで三十分もなかった。
 男は腹が減っていたこともあって、かきこむように箸を進め、最後の一口を運んだ瞬間、米粒の上に小さな虫のような黒い影が見えた。
 だが、機械のごとく反復運動を続けていた腕と喉は止まらず、男は虫を飲みこんでしまった。
 男はしばらく固まっていたが、すぐにグラスに入った水をあおった。気休めにでもなにかしなければ落ち着かなかった。
 男は腹に手を当てて、なにか異変はないかと探った。定食を一気にかきこんだせいで少し胃が苦しいが、それ以外、特にこれといって不調はなかった。
 しばらく様子を見ることにしようと、男は仕事へもどった。仕事は相変わらず忙しかった。給料が上がるわけでもないのに、どうしてこうも日々忙しくなるのか。ふとした時にあらわれる男の疑問も、忙しさの中に消えていった。
 だが、あの小さな虫を飲みこんでしまったことは忘れられなかった。
 一日の最後には必ず思い出して、腹を大事にさすり、なにか悪い虫でなければいいがと願った。
 数日の間、男は用をたすたびに虫が出ていないか、便器の中を用心深く観察した。あんな小さな虫なら、胃で溶けていてもおかしくないとも思ったが、男はその目で虫が出るのを見るまで、安心できなかった。
 ここ最近は、寝つきが悪くなった。寝返りを打っては体の中で虫が暴れ回っているところを想像して、男はさらに眠れなくなった。睡眠薬と下剤を交互に飲んでは、効果がないことに腹を立て、憂鬱になった。
 何度か医者に診てもらおうとしたが、仕事の忙しさにその暇も取れなかった。たまの休日もベッドから起き上がることができず、やっと体が動いた時には日が暮れていた。
 虫を飲んだ定食屋にも近づけなくなった。長年、男がひいきにしていた店ではあったが、また虫を飲んでしまったらと余計な考えが消えてくれなかった。
 昼はコンビニで買った弁当を公園で食べるようなった。公園は職場からやや離れていたため、男の昼休みは以前にも増して削られた。さらに、何を食べても体の中で虫の肥やしになっている気がして、みるみるうちに食欲は落ちていった。
 そんな生活を続けていると、男の体力は減り、集中力は十分も持たず、顔は青白く、目は充血し、目に見えるほど痩せ細っていった。まるで、死人が死んだことに気づかず、いらない給料のためにせっせと働いているようだった。
 男の異変は職場の同僚たちも気づいていたが、彼らもまた忙しさに追われていたため、誰も声をかけてやることができなかった。一人、声をかけてやる者がいるとすれば、男の上司だった。
 仕事のミスが重なっていた男に、上司はあれやこれやと気遣うような言葉をかけたあと、「仕事に支障が出たら困るからな」と言って去っていった。
 ある夜、男は決心して、自分の腹を引き裂いて虫を取り出そうとした。もう三日間、一睡もしていない。男は我慢できなかった。
 すっかり役目を忘れた包丁を持って、腹に当てる。ガタガタと手が震えた。きっとこれは虫が怖がっているせいだと思って、男はほくそ笑んだ。
 男は一度、包丁を握り直し、腹めがけ振り下ろした。
 と、そこで、明日は早朝会議があることを思い出した。
 こんなことをしている場合ではないと、包丁を投げ出し、睡眠薬を飲めるだけ飲んでベッドへ入った。
 男はもう自分が何をして、どこにいるのかわからなくなっていた。仕事をしていても、どこか夢を見ているようだし、通勤電車に揺られていると、無性に誰かを殴りたい衝動に駆られた。食欲は落ちているのに、食べきれないほどの食料を買いこみ、期限を過ぎては捨てることに快楽を覚えた。
 男はついに倒れた。
 病院に運ばれ、翌日、目を覚ました。
 男はすぐに虫のせいだと思った。それで倒れた原因を医者に尋ねると、医者は「疲れが溜まっていたんだろう。しばらく安静にしていれば治る」と言った。その診断に納得がいかず、男は自分の体を小さな虫が蝕んでいることを夢中になって話した。
 医者はあまり真剣に取り合わなかったが、検査してみることにした。食道から胃や腸、肺、心臓まで調べた。健康とは言い難かったが、男の言う虫は見つからなかった。
 男はそんなはずないと医者を問いつめた。何か見落としがあるに違いないと、やり直しを要求した。だが、二回目も結果は同じだった。
 とんだヤブ医者にかかってしまったと、男は怒って帰った。
 それから別の病院で検査を受けたが、ここでも虫は見つからなかった。男は機械が壊れているんだと怒鳴り、医者につかみかかろうとして、警備員に取り押さえられた。なおも暴れると、警察を呼ぶと言われ、男は恨み言を吐いて出ていった。
 また別の病院では脳の検査を勧められた。挙句の果てには、精神科へ行くことを提案され、腹の中に手を突っこんで虫を見せてやりたくなった。
 その頃、男はもう仕事を辞めていた。ところかまわず名医がいると評判の病院を回っては検査をしていたので、だんだんとお金も尽きていった。
 この国には、小さな虫一匹取り出せる医者もいないのか。男は嘆き、悲しんだ。
 体の中に虫がいるせいで、自分がどれだけ苦しんでいるか。それをわかってくれるのは、もはやこの虫だけのような気がした。
 その日も男はある病院の医者とケンカをして、ふらふらと街を歩いていた。
 誰もが男の側を避けていく中、近づいてくる者がいた。男の級友だった。級友は男のみすぼらしい姿を見て心配し、それから飲み屋に誘った。
 昔話に花が咲き、お互いに気心が知れる仲にもどってきた頃、男はぽつりとこぼした。
「実は、虫を飲んでしまって」
「虫? 一体、どんな虫だ」
 男は涙ながらにこれまでのことをすべて話した。
「医者はもう頼りにならない。俺はこのまま虫に食われて終わりだ」
 脂まみれのテーブルに突っ伏した男に、級友は口を開いた。
「それじゃあ、寺へ行ってみてはどうだ。いやね、これは聞いた話だが、僕の知り合いの娘が狐憑きになって、どんな病院でも治せないと断られた。それで、自棄になって寺へ狐を落としてほしいと頼みに行ったんだ。僧侶は「わかった」と二つ返事で引き受け、見事、狐を落としてくれたらしい」
 男はにわかに信じられなかった。
「でも、このご時世に狐憑きなんて」
「昔話で知ってる狐憑きとは違うぞ。現実の狐憑きはもっと地味なんだ。「コーン」と鳴いたりはしない。君みたいに痩せ衰えて、落ちこんでいく。そんなものさ」
 男は級友と別れたあとも、その話が心に引っかかっていた。
 貯金も残り少ない。ギャンブルは好きではなかったが、どうせ病院ではもう治せないことはわかりきっていた。男は寺に賭けた。
 級友に連絡をして、狐憑きを落としたという寺を教えてもらい、さっそく出かけた。寺は木々の生い茂る山奥にあった。男は死に物狂いで山を登った。
 やっとの思いで寺にたどり着き、お守りを売っていた巫女に僧侶に会いたいと頼んだ。
 男は本堂に通され、少し待っていると、重そうな袈裟に身を包んだ僧侶がやって来た。
 男の話を聞いた僧侶はうたたねから起きたように目を開けた。
「ずいぶんとご苦労をさているようですな。それで、虫は今、何をしてます」
「今、ですか?」
 男は腹を見下ろし、手を当てて虫の居所を探った。
「今は落ち着いています。山登りをして疲れたのかもしれません」
「ほほう、虫が山登りを」
 僧侶はおかしそうに笑った。
「どうです、山登りで虫がおとなしくなるなら、山登りを趣味にして虫と付き合っていく方法もありますが」
 僧侶の提案に男はとんでもないと首を振った。
「困ります。私はこの虫のせいで仕事も辞め、貯金も底をつくところなんです。どうか、虫を取っていただけないでしょうか」
 あまりにも悲痛な表情で男が訴えるので、僧侶は虫を取ってやることにした。
 僧侶は弟子に言って、本堂の戸をすべて閉め、祭壇に火を点けた。火はすぐに大きく燃え上がった。
 祭壇の前に座した僧侶は、男の方を向いて言った。
「これからあなたの中から虫を追い出すお経を唱えます。あなたも虫が苦しみ、自分の中から出ていくイメージを強く持ってください。咳が出てきたら、終わりが近い合図です。私が時を見て出てきた虫を捕まえます。いいですね」
 数回、鈴の音が鳴った。
 祭壇に燃える火に向かって僧侶がお経を唱え始める。
 男はそれを聞きながら目をつぶって、懸命に虫が出ていくところをイメージした。
 しばらくすると、男は体が火照ってくるのを感じた。もしかしたら、これは虫が苦しんでいる証拠かもしれないと思い、男はじっとしていた。
 もうしばらくすると、息苦しさを感じるようになった。腹の奥にいた虫が喉の辺りまで上がってきたのだと思った。
 男は小さく咳をした。続けて二、三回。
 僧侶はお経をやめ、ばっと立ち上がった。
「もっと大きく咳をして。ほら、もう少しです」
 僧侶が男の背を叩くと同時に、男は大きく咳をした。その瞬間、僧侶は持っていた紙で男の口先を挟み、
「捕まえた!」
 と叫んだ。
 弟子が戸を開き、本堂に日が差しこむと、男は体の中からすっかり虫がいなくなっているのに気づいた。
「ほら、この通り虫は捕まえました。もう心配はいりません。あとはきちんと休養と栄養をとりなさい」
 僧侶は虫を挟んだ紙を見せた。
 男は礼を言って、山を下りていった。
 一人、釈然としなかったのは二人のやり取りを見ていた弟子だった。
 しばらくして、弟子はお勤めの隙を見て僧侶の部屋に忍びこみ、虫を挟んだ紙を探し出した。
 人の体を蝕む虫とは一体どんなものだろう。怖いもの見たさで紙を広げたが、虫はおろか、紙はまったくの新品そのものだった。
「驚いたか」
 後ろで僧侶が言った。弟子はしかられるのも忘れて聞き返した。
「僧侶、なぜ何もないのです」
「それが不安というものだ」

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