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不作為の罪

[サムエル記 第一 19:1,2,3]

サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何か分かったら、あなたに知らせます。」

今日の聖書箇所
Iサム19:1〜7

今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。

サウルはペリシテ人によって密かにダビデを殺すと言う謀略が失敗すると,公然とダビデを殺すことを息子や家来たちの前で話し始めます。

それに対してサウルの息子ヨナタンはその事をありのままダビデに告げ,ダビデを保護し,サウルに対してはダビデがいかに忠実で益になることしかしていないかを説得し,この時はサウル王を翻意させます。

現実的にはヨナタンにとってダビデは最大の政敵です。自分の王位を脅かす存在です。ダビデがいなくなれば,自分には好都合という側面がありました。また自分がダビデを殺すと言っているのではなく,あくまで父サウルが言っているのです。見て見ぬふりをすることもできました。自分の手を汚さないで最大のライバルを消すこともできたのです。

しかしヨナタンはそんなこの世の利害打算にはいっさい動かされることはなく。即座にダビデを助けるために最善を尽くすのです。誘惑されて悩むこともありませんでした。

なぜそのように真っ直ぐに行動できたのでしょうか?それはもちろん御言葉にある通りにダビデを愛していたからです。それと共にヨナタンもダビデと同じく主を畏れる信仰があったからです。

自分が主の御前で裁かれる存在であることを知っていたからです。それゆえたとえこの世的には損になっても,勇気を持って大胆に正しいこと,主が喜ばれることを選択することができたのです。

自分がやがて主に裁かれる存在であることを覚えるなら,不作為の罪を犯すことからも守られていきます。

不作為の罪とはなすべきことを知りながら,それをしないということです。人は何か自分が悪しきことをしたらそれが罪になると考えることは多いのですが,なすべきことをしなくてもそれが罪になるとはほとんど感じないのです。

まあできなかったけど仕方なかった,しょうがなかったと考えることがほとんどではないでしょうか?しかし聖書ははっきとこう語っています。

[ヤコブの手紙 4:17]

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。

愛する兄弟姉妹,愛する聖徒の皆さま,この御言葉の基準に従ってやがて主の御前で裁きを受けることを考えたことがありますか?

どれほど悔い改めが必要でしょう。どれほど主の血潮による赦しと清めが必要になることでしょう。何もしないこと,それ自体が罪になることも数多く存在するのです。

ヨナタンは主を畏れる信仰を持っていたゆえにその罪を犯すことはありませんでした。私たちはどうでしょうか?不作為の罪も罪であることを知る時,なぜイエス様が十字架にまでつかなければならなかったかが初めて分かり,その血によって,聖霊様によって不作為の罪からの解放され始めていくでしょう。

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