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的をつく祈り

[使徒の働き 4:29,30,31]

主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

今日の聖書箇所
使徒4:23〜37

今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。

ペテロとヨハネは最高法院で脅されたことを教会に帰って報告します。生まれたばかりの教会にはこの世的には何の力もなく。そのような脅かしに対抗できる何の手段もありませんでした。

彼らにできることはただ祈ることでした。その祈りは守ってくださいとか脅かしが取り除かれるようにという消極的な祈りではなく,迫害や脅かしの中でもますます大胆に御言葉を語らせてください,そして御言葉に伴う癒しとしるしと不思議を行わせてくださいという祈りでした。

そのように祈ると彼らの集まった部屋が揺り動くほど聖霊が注がれ、彼らは聖霊に満たされ、ますます大胆に御言葉を語り出したのです。

この出来事は第二のペンテコステとも呼べるものでした。もしこの時、彼らが恐れて萎縮してしまって問題がなくなるように祈っただけであれば聖霊が注がれることはなく、宣教の働きはここでストップするか、大きく後退していたのではないかと思います。

しかし彼らが迫害と困難の中でもかえって宣教できるように祈ったので、聖霊は再び激しく注がれ、しるしと不思議を伴うますます力強い聖霊の働きが起こっていったのです。

使徒たちは迫害と困難の中でも大宣教命令に従い,自分たちの使命を果たすことができるよう祈ったのです。私たちはこのような祈りの方向性を持っているでしょうか?

私たちの祈りは問題がなくなるように,障害が取り除かれるように,必要が満たされるようにというものがほとんどではないかと思います。しかしそれよりも祈るべきことは宣教,魂の収穫という主の御心を成し遂げることができるように,そして主が与えてくださった使命を果たすことができるようにという祈りなのです。

なぜなら私たちが主の御心を行おうとし,また主が与えてくださった使命を果たそうとするなら,そのために必要なものは全て主が与えてくださるはずだからです。

戦争に行く兵士に必要なものは全て国家が与えてくれます。宣教という霊的戦いに出て行こうとする者たちには主が全てを与えてくださるのは当然ではないでしょうか?

どんな困難と戦いがあっても宣教し,神の国を拡大しようとする者たちの個人的な必要や問題は全て神が責任をとってくださるのは当然ではないでしょうか?

宣教しますから健康を与えてください,自分の使命を果たしますから健康を与えてくださいと祈るなら主は喜んでその祈りに答えてくださるのではないでしょうか?

しかし多くの場合,私たちはその反対の祈りになってしまいます。健康になったら宣教します,この問題が解決したら使命を果たしますとなってしまいます。それでもまだ宣教や使命を自覚しているなら良い方で,それを全く意識さえしていないことも多くあります。ただ自分たちの問題を解決してください,必要を満たしてください,苦しみを取り除いてくださいという祈りだけで終わってしまうのです。

そのような祈りだけならご利益宗教の祈りと何も変わらなくなってしまいます。そのような祈りが答えられていくことを期待することは難しいのではないでしょうか?なぜなら主がこのように言っておられるからです。

[マタイの福音書 6:33]

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

聖霊は何のために与えられるのでしょう?それは主の証人となって,御言葉を伝えるという主の御心を実現していくために与えられるのです。私たちがそれを祈り求める時,私たちにも豊かに聖霊は与えられ,それに伴ってあらゆるしるしと不思議も奇跡も起こっていくのではないでしょうか?

しかし私たちはどれほど自分の必要を第一とし,神の必要を後回しにし,また自分の問題の解決を最優先にして,神の御心を無視していることでしょう。そのような状態でどれほど神様,イエス様と言っていても祈りの答えや聖霊の満たしを受けることができないのは当然ではないでしょうか?

私たちはただ自分のことばかりに関心を持って,自分のことばかり祈っているというご利益主義を乗り越え,それに勝利できなければ,結局,イエスを信じても何も良いことはないと信仰は挫折してしまうしかなくなるのです。

しかし私のことはさておき神の御心を行うことができるように,自分の問題はさておき神の国を拡大し,主の教会を建て上げるという使命を果たすことができるようにという信仰へと成長させられ,それを中心に祈り求めていくなら,私たちにも何度でも聖霊は注がれ,祈りは次々に答えられ,しるしと不思議も次々に起こっていくのではないでしょうか?

私たちの信仰と祈りの方向性が神の御心という的をついたものとなっているかどうかを絶えず点検していきたいものです。

今日の祈り
主よ,自分のことしか考えられない者を憐れんでください。神の国で何が大切か,神の関心は何かを考えることができるよう聖霊さまの知恵と啓示を与えてください。

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