神への心
[サムエル記 第一 2:18,19]
さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。
今日の聖書箇所
Iサム2:12〜21
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。
幼いサムエルは祭司エリのもとに預けられました。そして幼い時から亜麻布のエポデをまとって主に仕える者となりました。エポデというのは祭司の服です。
母親のハンナは一年に一度しかサムエルに会うことはできなかったのですが、そのたびにサムエルが着る服を用意して持っていきました。ハンナはどれほどの祈りを込めてその服を作ったことでしょう🥲
当時は士師の時代でイスラエルの民も四分五裂の状態でバラバラでした。そして各自が自分の良いと思うことをしていました。礼拝も自分流がほとんどだったのです。それゆえハンナのように毎年、幕屋にまで行き、礼拝を捧げる人たちはごく少数だったことことでしょう。ハンナがいかに礼拝を大切にしていたかがよく分かります。
そして「この母にしてこの子あり」です。サムエルも幼い時から主に仕え、礼拝と祈りを大切にする神の人として育ったのです。ハンナもサムエルも神を知っていました。神を知っているということは神を畏れる心があり、神への礼拝を何よりも大切にするということです。そのようなハンナ、その子サムエル、そしてその家族には主の祝福が豊かに注がれたのです。
[サムエル記 第一 2:21]
主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。
一方祭司エリの息子たちは祭司でありながら、礼拝をないがしろにし、神への捧げものを私物化していました。
[サムエル記 第一 2:12,13,14]
さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。
エリの息子たちは自分たちが礼拝しないだけではなく、民の礼拝を妨げ、民が祝福を受け取れないようにしていたのです。これは恐ろしい罪で、このようなエリの家は子々孫々にまで神の怒りと呪いを招くこととなっていくことになるのです。
神を知っているかどうか、神を畏れているかどうか、神を愛しているかどうか、それは全て礼拝に現れるのです。礼拝を捧げるか、どのような礼拝を捧げるか、そこに神への信仰が現れるのです。
何でもとにかく形だけ整えて礼拝すればいいんだろう、祈っていればいいんだろう、献金すればいいだろうということではないのです。どういう心で礼拝するかが何よりも大切だということです。礼拝は神が受け取ってくださって初めて礼拝になるのです。自分で礼拝していると思っていれば、形だけ礼拝していればそれが礼拝ではないということです。
私たちどのような心で主の御前に出ているか、いつも点検する必要があるのです。主を畏れる心で、主を敬う心で、主を慕い求める心で主の御前に出ているか、それともただ義務的に宗教的に主の御前に出ているかをいつも点検していきたいものです。
なぜなら主が喜んで受け取ってくださる礼拝を捧げる時、そこに天は開かれ、そこに祝福は臨むからです。
霊的にも実際的にも混乱し、荒れ果てていた士師の時代、そんな時代に神の贖いの祝福をもたらしたのはハンナとサムエルによる真実な礼拝と祈りでした。目には見えなくても主は私たちが捧げる礼拝を全て見ておられるのです。主が喜ばれる礼拝を日々主に捧げて、主に仕える者となっていくことができるよう祈りたいものです。
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