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さばきの日に備える人

[ゼパニヤ書 2:3]

すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。

今日の聖書箇所
ぜパニや1:14〜2:3

今日はゼパニヤ書から恵みをいただいていきたいと思います。

ゼパニヤはユダ王国の宗教改革で有名なヒゼキヤ王の4代目の子孫で王族でした。ゼパニヤはヨシヤ王による最後の宗教改革に取り組んだBC621年前後に預言者として用いられたと思われます。

その中心メッセージは他の預言者とも同じで、主の日、神のさばきの日が来るので悔い改めなさいという警告のメッセージでした。

[ゼパニヤ書 1:14,15,16]

主の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。

ゼパニヤはユダの民が主なる神との契約を裏切り偶像崇拝を続け、民の間で不正と不義が満ちていることに対して、神の義なる裁きは必ず下るので今、悔い改めて主とその律法に立ち返るようにと切なる心で預言したのです。

しかしユダの民の心は鈍く、彼らはその警告のメッセージを受け入れることはありませんでした。ヨシヤ王は何とか国を主に立ち返らせようとしたのですが、それは一時的表面的な改革で終わってしまい、ユダ王国とユダの民は神の裁きによる滅亡へと進んでいくことになったのです。

ユダの多くの民はまさか自分たちが滅びるはずがないと思っていたからです。自分たちには立派なソロモンの神殿がある、自分たちは神殿で主に仕えているから大丈夫だと思っていたのです。

ユダの民は主なる神も偶像も両方を礼拝していました。そして神殿での宗教儀式は守っていましたが、律法、神の御言葉を実践しようとはしなかったのです。

ユダの民はゼパニヤの警告に対して興味も関心もなかったようです。馬耳東風で聞く耳を持つことはなく、生き方を何も変えることはありませんでした。相変わらず金を求め、利得を求め、快楽を求め、名誉を求め、権力を求め、東奔西走していたのです。

律法に帰れ、契約に帰れという預言者の声に対して「うるさいなー。ちゃんと信じて捧げものだってしているじゃない?それ以上何が必要だって言うの?私たちも忙しいのだからこれ以上要求しないで!」と預言者の声、主なる神の御声を無視したのです。

その結果は悲惨なものとなり、バビロン捕囚によって彼らが追い求めていたものの全てを失うことになってしまったのです。神の裁きなんてあるか、自分たちが滅亡することなどあるかとたかをくくっていたのに、約20年後には神の義なる裁きによる悲惨な滅亡を味わい知ることとなってしまうのです。

そしてこれはゼパニヤの時代のユダの民だけのことではないのです。現代の神の民にもそのまま当てはまることなのです。

神を信じる、イエスを信じると言いながら、神は愛だからとその御言葉を無視して自分勝手に生きて、それでいて自分たちは救われている、自分たちは天国に行けると思っていないでしょうか?

神を信じる、イエスを信じると言いながら、求めるものは神とその御言葉を行うことではなくただ自分たちの肉の欲を満たすために神を利用していないでしょうか?

神を信じる、イエスを信じると言いながら、この世の人と何も変わらない生活をして日曜日だけ聖書を開くサンデークリスチャンになっていないでしょうか?いや日曜日だけでも聖書を開くならまだいいのかも知れません。イエスを信じるクリスチャンだと言いながら日曜日の礼拝さえ全くしない人もいるからです。

そのような現代のクリスチャンの姿はまさにゼパニヤ時代のユダの民と同じではないでしょうか?怠惰と貪欲のぬるま湯にどっぷりと浸かりながら、それでも大丈夫、私は救われていると思い込んでいるのです。

そのような者たちが神の裁きの日に耐えられるのでしょうか?ゼパニヤはこのように警告します。

[ゼパニヤ書 1:18]

彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。主のねたみの火で、全土は焼き払われる。主が地に住むすべての人をたちまちのうちに滅ぼし尽くすからだ。

目を覚まさなければならない時が来ているのではないでしょうか?主を尋ね求めて主との人格的な関係を築くべき時ではないでしょうか?義を尋ね求めて、主が喜ばれることを実践するべき時ではないでしょうか?柔和さを尋ね求めて、主の御言葉に心頑なにするのではなく、御言葉に従順に従うことを求めるべきではないでしょうか?

アドベントを迎えるこの時、愛の警告に耳を傾ける者となり、主をお迎えすることができるように悔い改めの恵みを切に祈り求めていきたいと思います。

今日の祈り
主よ、今年も終わりが近づいています。人生に終わりがあり、この世に終わりがあることを覚えて主の御前に出る備えをする者とさせてください。

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