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ギホー部へようこそ 1-2 窓際族と超絶失礼な男

前回までのあらすじ
大手医療機器メーカーの広報部で働いている村山里穂は、あと3ヶ月で三十路を迎えるのに、彼氏がいないことに焦りを感じていた。そんな時、突然『部署留学』という、他部署で数ヶ月働き、横の繋がりを強くする、という制度の対象として選ばれた。派遣先は神奈川の研究所内にある『技術報告書管理部』、通称“ギホー部”。がっかりしながらも、数ヶ月の我慢と仕方なく受け入れるが…。

第1章 Vol.2

 「やばい…、何もない…」
 
それから2週間後。
 
村山里穂は、ハタミヤ研究所のある神奈川県の僻地へと、大きいスーツケースを抱えてやってきた。
 
“部署留学”をする数ヶ月の間、若手社員や出張者のための寮に泊まることになっている。
 
今日は研究所で仕事説明を受けた後、そのまま寮生活を開始する予定だ。
 
顔合わせが昼過ぎの予定だったので、早めに行ってランチでも取ろうかと、予定より1時間半も早く着いたが、駅周辺にランチを取れるところなどなかった。
 
「こんなに田舎だなんて…。私、干からびて死んでしまうんじゃ…」
 
仕方なく、駅に唯一あったコンビニでおにぎりを買うと、前のベンチに座って、もそもそと食べることにした。
 
「あーあ、今頃なら会社近くのイタリアンで、トマトパスタを食べに行ってたのに…」
 
その時、ポケットの中にあったスマホが震えた。彩美からのメッセージだ。
 
『Ayami: 今週の木曜日に六本木のタワマンで異業種交流会があるんだけど、来るでしょ?』
 
スマホを見ながら里穂は固まる。
 
ここから六本木まで行くのに、一体どれだけかかるのか?
 
研究所から駅までバスで30分、そこから東京まで出るのに1時間10分、さらに乗り換えて…。考えただけで、白目を剥いてしまう。
 
『Riho: ごめん、ちょっと出張で神奈川に滞在することになって…。しばらく平日は無理かも泣』
 
涙き顔の絵文字を連打で3つ押したが、それでも押し足りない。
 
会社にとって3ヶ月から半年など、ただのお試し期間。けれど、里穂にとってはとても大事な時間なのだ。
 
− 私はこんな田舎所で、素敵な男性とも出会えないまま、三十路を迎えてしまうっていうの…!?
 
絶望が里穂の全身を覆う。
 
その時、目の前の停留所にバスが来た。だが、研究所に向かうには、まだ早い。
 
里穂はまだおにぎりが残っていることを確認し、バスを見送ることにした。
 
− あれ、ここのバスって、何分間隔だっけ…?
 
バス停に近寄り、時刻表を確認してみる。そこでさらに里穂は驚愕した。
 
「嘘でしょ!?バスって1時間に1本しかないの!?朝と夕方でさえ1時間に2本…」
 
真夏のジリジリと暑く照りつける日差しの中、本当にこのまま干からびて死んでしまうのではないか、と途方に暮れるのだった。
 

 
「着いたと思ったら、ここから山登り…!?」
 
1時間待って乗ったバスは、研究所の見える山の麓に停車した。
 
そこから歩いて20分、ひたすら研究所まで長い坂道を登らなければいけない。
 
「もう、なんでも来い」
 
幸い、太いチャンキーヒールのパンプスを選んだ自分を褒めながら、スーツの上着を脱いで、なんとか入り口まで辿り着いた。
 
中に入ると、広いロビーがある。外とは違い、ひんやりとした空気で息を正すと、総務部のいる2階へと上がった。
 
2階にはだだっ広い部屋があり、そこに総務部や経理部、その他の部署の人たちが忙しそうに働いていた。
 
「村山さんは研究所は初めてですか?」
「あ、はい。今日初めて来ました」
「それなら、全体を案内した後、技法部のある7階の居室へと案内しますね」
 
人事部の女性が、地下から7階まで順番に、丁寧に案内してくれる。
 
地下は主に光学実験室があり、1階に広いロビー、2階が事務や総合職と呼ばれる部署の部屋と食堂。3階から5階は技術開発者用の居室(デスクのある小部屋)や実験室があり、6がクリーンルーム、7階が資材室となっている。
 
研究所内では社員はエレベーターを使わないのがルールらしく、里穂のふくらはぎがプルプルと震え出した頃、ようやく派遣先となる“技術報告書管理部”へと案内された。
 
「初めまして、曽根崎と言います」
「初めまして。今日からお世話になります、村山里穂です」
 
部屋に入ると、50代後半の白髪まじりでメガネをかけた優しそうな男性が、笑顔で迎え入れてくれた。
 
室内は手前にデスクが2つだけ、ポツンと置かれている。その奥には、数十個もの大きな資料棚が、所狭しと並べられていた。
 
− うわ…、何これ…。
 
呆然と立ち尽くす里穂に、曽根崎が「ハハッ」と笑う。
 
「びっくりしましたか?これが僕たちの扱っている、大事な報告書たちです。と言っても、ここにあるのはホンの一部。今動いているチームのものだけですけどね」
 
「…つまり、これを管理するのが、この部署ってことですか?」
 
「そうですね。報告書は基本的に紙とデータの両方で管理しているんですが、データの管理システムが変更するので、色々と見直しが必要でして。その辺りを村山さんにも一緒にやってもらいたいと思っています」
 
曽根崎からの説明を聞いていると、突然「ちわー」っと男性が入ってきた。
 
見た目は30代半ば。身長は180センチはありそうだが、猫背で首が前に出ているため、実際どのくらいあるのかわからない。
 
顔は流行りの塩顔とは真逆で、彫りが深くギョロリとした目を持つ、昭和のイケメンだ。
 
いや、30代半ばなら、ぎりぎり平成だろうか?
 
里穂がそんなことを思っていると、その男がいきなりずかずかと目の前までやってきた。そして顔をじっと覗き込むなり、ぶつぶつと呟いた。
 
「身長は160センチ、体重は46キロ前後。目の下のちりめん皺を見る限り、年齢は…31ってところか…」
 
そう言ったかと思うと、その男は「曽根さーん」と、曽根崎の方を振り向き言った。
 
「全然新人じゃないじゃーん、せっかく期待してたのに、がっかりだわー」
 
あまりの失礼な態度に、里穂は声が出てこない。すると、曽根崎が困ったような顔をして言った。
 
「こらこら、新田くん。こちら、広報部から来た村山さん。入社は確か…」
「16年です。まだ、29歳です!」
 
里穂が怒りながら被せるように言うが、曽根崎も新田という男も、全く気にせず話を続けた。
 
「そしてこっちが新田くん。DEBチームの課長。彼はとても博識だから、色々と教えてもらうといいよ」
 
「どうもー、博識の新田です。それより曽根さん、新しく契約した薬剤に関する資料で…」
 
2人はそのまま、資料を探しに部屋の奥の方に行ってしまった。
 
手持ち無沙汰になった里穂は、一番手前に置いてある、資料の入った分厚いファイルを手に取り、中をペラペラとめくってみる。
 
沢山の付箋がついたそれらは、技術報告書、つまり、仕事で得た技術的な知識を報告書にまとめたものだった。
 
「ふーん、何書いてあるのかさっぱり。専門用語ばっかりだし。っていうか、これが広報になんの関係があるって言うのよ…」
 
里穂はそう言いかけて、ある噂を思い出した。
 
“部署留学”などというおかしな制度ができた、そもそものきっかけは、広報部の若手、河合晶子のせいだという。
 
彼女が雑誌社からの事前インタビューで、手術用デバイスの新製品について聞かれた時に、「今回変更したのはデザインですね、かっこよくなりました」と、機能性のことを全く理解していなかったことが、上にバレてしまったからだとか。
 
コンシューマー向けの商品ならまだしも、医者が使うための手術機器を「カッコイイデザイン」と言うだけで、新製品として売り出すワケがない。
 
そもそも、手術機器のデザイン変更には多くのリスクが伴う。少しの変更で、非常に多くの試験が必要になるのだ。
 
そんなことも考えず、平気で言ってのけるのが、河合晶子なのだ。
 
このことを問題視した上層部が、これまでも部署間の横の繋がりの薄さを懸念していたこともあり、今回の“部署留学制度”が誕生した。
 
それなのに、当の本人はごねまくり、結局代わりに里穂が行く羽目になった、というワケだ。
 
「ほんっと河合さん、やってくれたわ。戻ったら、しごきまくってやる…」
 
再び怒りが湧いてきた里穂は、思わず持っていたファイルを雑にドンっと置いた。
 
「こらー、資料は大事にしろよ。入れる場所がずれてるだろ」
 
「あ、え、すみません…」
 
いつの間に自分の後ろにいたのか、新田が里穂の持っていたファイルを手に取り、元の場所へと戻した。
 
− 一個ずれただけで、うるさいなー。
 
喉まででかかった言葉を、里穂はなんとか堪える。
 
−たった数ヶ月の我慢よ。これを乗り切れば、また広報部に戻れる。
 
里穂は呪文のようにその言葉を繰り返し、“ギホー部”1日目をなんとか無事に終えた。

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