コミュニティを拒絶する自分
小さいときから人付き合いが得意ではなかった。一緒に遊ぶ友人はいた。しかし、「遊ぶ」という目的がなければ、どう付き合えばいいのか分からないというのが自分のなかに常にあった。「ただ会いたい」というような欲求が自分のなかにほとんどない。
何か会うための目的があれば別だが、何もないとなると、どうやって立ち回ればいいのか分からなくなる。自分から会いたいという気持ちがないから、どんどん人と会わなくなって、人間関係も希薄になっていく。
考えてみると、自分のこういう傾向は小さいころから全く変わっていない。つまり、コミュニティに属するということを非常に苦手にしていた。コミュニティのなかにいると違和感を感じることが多かったのだ。
「自分と同じような考え方をしていないからおかしい」「どうして、自分と同じように考えられないのか」「どうして、こんなことも分からないのだろうか」
振り返ってみると、自分がとても不遜であるように見えてくる。自分より劣っていると感じてしまうと、コミュニティに対する興味は途端に薄れてくる。どうせ、ここにいる誰かに話しても分からないといった具合だ。
自分とは違うことが気持ち悪いという考え方が、自分の人生に暗い影を落としていたのかもしれない。ここにいる人たちとは決して分かり合えないと自分で早々に決め込んで、自分からそのコミュニティを離れてしまうことが多かった。
しかし、俺はチャレンジしていただろうか。嫌われることを覚悟で、自分を思い切りぶつけることが出来ていただろうか。
そんなことはなかった。俺は諦めていた。試してみることもしないで、ただ自分を出すことから逃げていた。
自分を励ますとすれば、自分と同じように考える人があまりいなかったことも本当なのだと思う。もっと深く話していれば相手のことも分かったし、自分のことも分かってもらえたのかもしれないけれど。
コミュニティは重要だと思う。自分はこれまでコミュニティをないがしろにしてきたように思う。今になって、自分自身がコミュニティに生かされていることに気付くことが出来た。そして、どうすれば自分に居心地の良いコミュニティが作り出せるかということを今考えている。結局人間は、コミュニティのなかでしか生きられないということだ。つまり人間関係とも言える。
コミュニティが自分にとって不可欠であると気付いたのは、他ならぬ家族との関係だ。あるとき、もう自分にとって不要で、自分の成長にとって邪魔になるから断ち切ってしまおうと考えたことがある。とてつもなく乱暴な考え方だが、いつまでたっても成長できていない自分が精一杯人のせいにして考えた結果だった。そして、しばらく離れてみて気付いた。心がえぐられるような辛さがあったからだ。それまで会って話が出来た人と会えない、交流が出来ないということは本当に辛い。相手が死ぬこともミュニティを失うことを意味するが、どうして自分で、自分ひとりで、これを断ち切ることが出来るのだろうか。コミュニティのなかにいて辛いこともあるけど、逃げたらもっと辛いことになるということに気付いたのだ。
もちろん、自分にとって全く不要であるというコミュニティはあるかもしれない。しかし、そのコミュニティが、自分にとって不要か不要ではないかはそう簡単には分からないのではないか。
そして、自分にとって不要でも、そのコミュニティにとってあなたはかけがえのない存在かもしれない。
コミュニティを拒絶して、コミュニティから完全に逃れることは出来ないし、それは自分にとっての成功ではないと分かった。
だからこそ、自分がどんなコミュニティのなかにいて、どのように振舞っていくのかということについてこれから考えていく必要がある。
コミュニティを自分で広げていくことについてもチャレンジしていきたいと思う。
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