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(続き)壮絶な14年
野球づくしの小学6年間
小学1年生の夏、野球を始めた。父が立ち上げた少年野球チーム。
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土日は試合。平日練習週2日。さらに塾、英語教室、学校のクラブ活動の陸上。遊べる日などなく、なかなか充実した生活を送っていた
自慢話は、6年生の時、全日本女子学童軟式野球大会で京都代表選手として選ばれレギュラーを取ったこと。開会式は東京ドーム✨誰かが開会宣言してる中、必死でベース周りの砂をかき集めてた笑
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本当に野球ずくしな6年間だった。男の子に混じりながらも1番バッター、サード、レギュラーとしてやり遂げた。
素敵なインストラクターさんと出会い、憧れ、
当時の夢は、「スポーツトレーナー」になることだった
反抗期の中学時代
受験しなかった子は地元の中学へ行くのが普通だ。
でも、私は家からバスで片道1時間弱かかる中学校へ越境し、入学した。
理由は、女子ソフトボール部があるから。それだけ。
女子野球部、女子ソフトボール部がある中学校で家から1番近いのがここだった。
デカすぎるミズノのリュックを背負って、毎日1人だけのバス通学の3年間が始まった。
もちろん、友達は0人スタート。転校生気分で、友達作りに必死だった。
そんな中、私に反抗期が来た。
バス通学だった私は、たまに学校を休みバスでいろんな場所へ行った。
(親に言ったことがない)
トイレの天井をホウキで穴を空けたり、授業中抜け出したり、わざと授業に遅れたり、
まじダサいけど、悪目立ちしたかった笑
でも、部活はというと、現在も実業団で活躍しているピッチャーの同期とバッテリーを組んでいた。当時から各地で有名になるほど格別に良いピッチャーだった。おかげで3年間好成績を残した。近畿大会も行ったし、全国大会にも出場した。
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中学3年間ソフトボールをやり遂げ、もう辞めるつもりだった。
高校は、新しいスポーツを始めたかった、キラキラJKになりたかった。
そんな中、2校からソフトボール推薦をいただいた。
もう辞めたい私 VS まだ続けて欲しい親
この戦いは半年以上続いた。
この戦い中、反抗期でもあった私なのでまともに親と話した覚えはない。
最後は続ける選択をした。
奴隷になった高校時代
キラキラJKになりたかったけど、待っていたのはドロドロ(泥泥)JK
あまり下調べせずに入学したこの高校は、
全国大会常連校のソフトボール強豪校だった。
京都から滋賀へまたもや片道1時間半かかる通学がスタートした。
もはや毎日が旅だった。
そしてシンプルに奴隷になってた。ほんで宗教学校だったので、毎朝、般若心経を唱えたり、至る所で合掌をしたり、面白みのある高校だった。
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最終学年では、キャプテンキャッチャーをつとめ、全国ベスト16という記録を残した。この記録を残すまでここでは書ききれないほどのドラマがあったのでこれこそ映画化されるべき。
最後は、滋賀国体選手にも選んでいただいた。過去最高の打率を残して終わった。
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間違いなく人生で1番辛かった3年間。この3年間があったので今辛いことがあっても、この3年間に比べるとまじミジンコ以下。
やりきった!もうここまでソフトボールやったしもういいでしょ!!
進路選択に悩んでいると、またもやっ2つの大学からソフトボール推薦をいただいた。国体の好打率の試合を見にきてくださっていた。
「いやいや、流石にもうソフトボールはええです。」
なんて言えなかった。言いたかったけど言えなかった。
2年も全国大会にレギュラーで出場しキャプテンを務め、国体選手にも選んでいただき、ここまで来て辞める勇気が出なかった。続けろという周りの圧やプレッシャーを勝手に感じていた。
辞めたら嫌われると思っていた。怖かった。
周りの評価を気にし、失望されるのに怯えていた。
続けたらみんなの期待に応えられると思った。また応援される人になれると思った。変なプライドが邪魔をした。
気づけば、面談が始まり、10月には入学が決まっていた。
お気づきの人もいると思うが、自慢でもなく、私は受験勉強をしたことがない。ソフトボールに助けられながら生きてきた人間だ。
DASHアスリート特別総合型選抜推薦(いかつい笑)
入学条件は部活を辞めないこと
大学でのソフトボール生活が始まった。
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私を苦しめたのは燃え尽き症候群
気持ちと体が違う動きをする。
脳に、やる気を出せと訴えても、体はやる気を出してくれない。
精神と身体が弱っていく自分。そんな自分をコントロールできなかった。
部屋で泣き続ける毎日。
同期と話し合った夜、過呼吸により救急車に運ばれた。
その日から休部をした。
でももう限界、休部をしてもソフトボールをやりたいと思う日は一度もなかった。
だが、私は退部が認められない人間だった。
大学を辞めず退部する方法を考えた。交渉しに行き続ける方法しかなかった。何日も何度も交渉し、大学2年の12月に認められ大学を辞めず退部した。
それからというもの、
「ソフトボールを辞めた根性なしのヤツ」「みんなを裏切ったヤツ」
そんな風にみんなに思われていると本気で思っていた。
外に出るのも怖かった。ソフトボールしか取り柄がなかった私がソフトボールを辞め、本気で全員に嫌われたと思っていた。作り笑顔の毎日。
他大学への編入や、大学を辞めることを考え始めた。
そこで提案していただいたのが、休学留学。
今の自分を変えたい、この状況から逃げたい
英語勉強しに行きたいというよりは、上記の気持ちの方が強かった。
いくつかのリスクはあったもののしょーみどーでもよかった。
早くこの現実から逃げ出したかった
全てを投げ出し、大学3年になるタイミングで休学留学させていただいた。
私の人生を180度変えた留学の話、書いていくね
続く>>>
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