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「面倒」と「嫌い」は違う。一緒にすると人生はつまらなく、窮屈になる。

この記事は、ついつい混同してしまいがちな「面倒」と「嫌い」について、考察しています。
結構どうでも良いことのように見えて、非常に重要だと思い書きました。

結論から言うと、自分の世界に「嫌い」を増やせば増やすだけ、生きづらくなって窮屈になって、孤立して、辛くなるよ。だから、嫌いをできるだけ増やさないようにしよう。「面倒」は「嫌い」とは違うから、嫌いだと誤解して簡単に捨てたりしないようにしよう。捨てたらもう拾えなくて、実はとても大事なものかもしれないから。
というお話。

全文、7600文字程度。無料です。
無料の理由も最後に書いています。

ただの抽象的な内容だと思うかもしれないけれど、実際にそれで悩んでいるのでは、という人が私の身近にも多くて。
それがね、結構、若い世代で。
感受性が豊かな彼らに話すことを意識して書いていこうと。
導入が何やら抽象的ですが、できるだけ具体的に書いていきます。

生きていく上で、なんとなく思っていること、感じている違和感、それは言語化すべきです。言語化するっていうのは、自分の知っている言葉でそれを理解するということで、それはつまりこういうことか、という納得に繋がる橋渡しになります。
そしてまたそれが、身体ごと理解することに繋がり、ついには心からの「わかった」になる。言語というのはそういう役割をしています。
自分で言語化しないなら、言葉にされたものを読んだり、誰かからそれを聞くことが大事。

あなたの言葉に落とし込めていないものは、あなたの世界にないのと同じだから。

「嫌い」と「面倒」って、別に区別しなくても良いんじゃないの?と思うかもしれません。ほら、細かいこと言う奴ってうるさいし、それこそ面倒じゃないですか。でもそれは人生にとって、案外大事な話だと思っています。

1、「嫌い」と「面倒」の違い

嫌い:きらうこと、いやがること。
面倒:手数がかかって不快なこと、煩雑で煩わしいこと
(岩波国語辞典より)

SNSで、相手をブロックするというのは「嫌い」(関わりたくない)という意思表示とその行動です。
ブロックすると関わりが物理的になくなるので、当然ですが、通常はそこから関係が復活することはありません。
自分から相手は見えなくなってしまうから、そんな人がいたことすらそのうち忘れてしまうのかもしれません。そうするとあなたの世界から完全に消えてしまうわけです。

もちろん、嫌いなものを無理して自分の世界に置くことはしなくても良い。嫌いなものって、ただただ辛いし、自分を蝕んでいくから。
私だって、どうしたって食べられないものはあるし、どうしたって好きになれないもの(例えばホラー映画とか、黒板に爪を立ててしまった時のあの音とか)って、確かにありますから。
そういうのは、好きになれなくてもしょうがないじゃないですか。

人によっては、他人には言えないようなことで、どうしても好きになれないものもあるかもしれません。例えば「親」とかね。
それだって、悲しいけれど自分を蝕んでいくものになることはあるかもしれない。
私は、某テーマパークが嫌いなんですが、少数派すぎて、若い頃はそんなこと他人に言えなかったです。若い頃のつきあいってもんがありましたし、言っても理解されないだろうし、なんなら空気が悪くなるだけです。なんとか頑張って遊びに行きました。
嫌な気持ちが顔に出てしまって、喧嘩になったこともありました。

本当に嫌いなものを、好きになることは難しいです。
それは嫌いだということを認めるしかないわけです。
そしてそれが、自分の人生を暗くするものであれば、そこから距離を置く事や、縁を切ることも大事です。

そして、一度嫌いになったものを好きになることは、ほぼ不可能です。

でも、でもですよ。
ここで一旦、考えたいことがある。
もしかしたら、ただ「面倒」なだけのことを「嫌い」だと思い違いして、自分の世界から消してしまってはいないだろうか、ということ。
「面倒」というものは、実に「嫌い」と似たような顔をしてこっちにやってくるものなんです。
そこを区別してみる。
そういうことを考えてみたいと思います。
なぜなら、後述しますが、何でもかんでも「嫌い」にすると、生きていくのに非常に困ることが起こるからです。

例えば、家事は面倒なものです。
でも仮に一人暮らしなら、誰も代わりにやってくれる人がいないから、面倒でもゴミを出すし、汚部屋にならない程度に掃除もするし、着るものがなくならない程度に洗濯もするわけです。
費用はかかりますが食事はコンビニや外食などにして、できるだけ手間を軽くすることも可能です。

イヤイヤながらしなくてはならない家事をしていたある日、あなたはふと「どうせやらなきゃいけない掃除なら、思い切って断捨離して、綺麗でホテルライクな部屋にDIYしてみよう」と思いつくかもしれません。
今ならやりたいと思ったことは、たいていネットに必要な情報があるので、思い切って断捨離して、ちょっと壁紙まで変えてみることは、ちょっと頑張ればできそうです。

それは、興味がない人にとってみれば考えるだけでも「面倒」なことです。時間もかかるしお金もかかる。
決して楽ちんではないそれを、わざわざしようとする。なぜ?
でも人は、時にこういうことがあります。
面倒くさがりなのに、それは面倒くさくないんだ?みたいなことを、やってしまうこと。

実際に、部屋を大改造してみたら、気持ちが良い。
新鮮だし、おしゃれだし、自分でやり遂げられた達成感もある。
面倒だったはずの掃除は「この綺麗な部屋を維持しよう」というモチベーションになり、掃除が好きになるか、少なくともあれほどの面倒は感じなくなっている可能性があります。

ここでわかる事があります。

「嫌い」は定数
「面倒」は変数なんです。

定数というのは、決まっていて変えられない数字のこと。
変数というのは、流動的で変えられる数字のこと。

人って結構「嫌い」だと思っているはずの人の事を「でもあの人も良いところあるから」と好きになろうとしたり
かと思えば「面倒なだけ」かもしれない家事に対して「私は家事が嫌い、だからしない」と決めつけたりしがちです。
でも「嫌い」と「面倒」は別物で、「嫌い」は定数だから変えようがないし「面倒」は変数だから変化の可能性がある。嫌いは好きに変換できないけれど、面倒なことって、好きになれる可能性を充分に含んでいるんです。

そもそもそれが「嫌い」なのか「面倒」なのかを考えること自体が、面倒なのかもしれないし、面倒なことを「好き」に変えるのだって、エネルギーが必要です。それこそめんどくさい。

だとしたらせめて、嫌いとまではいかないけれど面倒だなと感じることを、少なくとも「嫌い」と決めつけてしまわないでそのままにしておくことを、私はお勧めします。一旦「嫌い」にしてしまうと、それもまた、もう好きに戻る可能性はほとんどなくなってしまうから。

2、「嫌い」が多ければ多いほど世界は狭くなる

そもそも「嫌い」が増えて、具体的に困ることって、一体、何でしょうか。

「嫌い」をゼロにするというのはなかなか難しいことですが、少ないに越した方が良いことも事実です。

今の世の中、多くの人が「無理」という言葉を、非常によく使うようになったな、と思います。
友達から「今日飲みに行こうよ」「あー無理」よくありそうな場面です。
本来「無理」という言葉は「嫌い」に匹敵する、相手を拒絶する言葉です。

「友達同士なら良くない?別にそんな意味で使っているわけじゃないし」と思うかもしれません。
でも、反射的に「無理」を使う人は、仲良しの友達と一緒の時だけでなく、ほかの場面でもこの言葉をよく使うと想像できませんか?
「ちょっと手伝ってー」「あー無理」
「この女優、私、無理」
などなどおそらく悪気なく無意識に。

そんな人と気が合うのは、同じようなノリで同じような言葉使いをする人です。つまり無意識に人を拒否する人、文句の多い人、毒を吐く人が集まってくるし、あれもこれもすぐに嫌いになる世界にいたら、自分も同じように、どこかで嫌われていてもおかしくないと考えるでしょう。

そのうち、自己肯定感が低くなっていきます。
表向きは強気だから、最初は自分でもあまり気がつかないと思います。
でも、ある日「自分は大切にされない」ということを感じ取る現実がきてしまう。だって自分の周りに人を大切にする人がほとんどいないのだから、自分が大切にされないのは当たり前だし、それもどこかで理解していたはずなのに、でも、実際に大切にされない時がきたら、あまりにもごく普通に心が傷つきます。
そこでようやく気がつきます。こんなにも辛いことに。

これがまず、とても怖いことです。

そして、捨ててしまったものはもう拾えないんです。
自分が拒否をしてしまったら、ブロック解除してもその相手との関係はおそらく元に戻らないし、見た目は戻ってもそれはとても歪なものになるのが想像できます。

3、「面倒」は不快だけど、捨てるのは待って

けれども、先ほどのDIYの話でもわかる通り「面倒」は、少なくとも保留にしておけば、ある時、それが「好き」になる可能性が出てきます。

不良だし自分とは合わないと思っていたクラスメイトの男子がある時、野良猫に優しくしているのを見て、印象が変わって恋に発展するとか、それは漫画ですけれど、あるじゃないですか。
なんか不快なんだけど、とりあえず様子を見る。そうしたら良き方向に向く時がある、あれです。

私は、服を作る関係の仕事を長くやっているんですが、よく驚かれるけれど、別に服を作るのは好きじゃないんです。
嫌いでもないけれど、本音をいえば面倒です。
服飾って、もうめちゃめちゃ面倒な世界です。
やめようと思ったことも何度となくある。でもその度に、やめることを保留にしてきたんで、成長し、今は自分の武器にもなっていますが。
好きだから続けてきたってわけじゃないんですよね。
ただ、捨てなかっただけ。

好きになれなくても、嫌いになるのをやめるだけ。そして結果的にそこに、大事なものが残る事が、結構あるんです。

4、人生とは「残す」事

じゃ、面倒を我慢すりゃいいの?と思うかもしれないですが、それとも少し違うんですね。

人生の豊かさを作る方法は、良いことを増やすことでも、嫌なことを選ばないことでも、嫌なことを我慢することでもなく

豊かなものを自らの手で「残す」ことです。

良い人生というのは、自分の心の中に、数多く思い出せるだけの良い記憶が残ることだと考えるとわかりやすいかもしれません。

豊かなものを「残す」ためには、引き算しても残るだけの、出来事や感じること、出会う人やアクシデントなどの総量を必要とします。
良いことも悪いことも、快も不快も、必要です。
内容ではなくその「量」が必要なんです。
まずは自分に与えられるものをできるだけ受けとめます。受け流すのではなく、受け入れるのでもなく、ただ自分の胸に置く。

できるだけいろんな人と会うとか、日常と違う場所にも行ってみるとか、1人が好きな人は、部屋にいながら、いつもと違う本を読んだり、学んだり、何かを書いたり作ったりするのも良いかもしれない。

そこから、自分を不幸にする嫌なものはもちろん「嫌」でかまわなくて、それがわかった時点でやめる。距離を取る。

そして自分の中に残したいものを、残す。
そんな風にして自分の中に残っていくであろう、豊かなものを、選び取っていく。

最初から「さぁ自分の好きなことをしよう」とか言われても「自分は何が好きなのかわからない」という人はとても多くて、一生懸命考えるんだけど見つからないのは、そもそも、好きなことを選び取るために必要な量を、受け止める前に拒否してきたからだとも言える。

不快なことを見ないようにしたり、気づかないようにしたり、それは受け流すということですが、そんな風にしてきたかもしれません。
あるいは、嫌なのにも関わらず「◎◎だから受け入れなくては」と、変えられないものに向き合うことに時間を使ってきたからか。
良いことが起こっても「今だけかもしれない」と不安になってみたり。
もっと言えば、もしかしたら「どうせつまらないだろう」とか「あー、見なくてもわかるわ」と、事が起こる前に排除してきがちだったり。

とにかく楽な方を、選んだ。
粘らなかった。

そういう人の「今」は「豊かさを選び取っていかなかった」結果、残るものがとても少なくなっている状態なのかもしれません。

5、上澄みだけの人生は、つまらない

自由に生きよう、というよくある言葉は「不快な事はしなくて良いよ」という意味を多分に含む言葉ですし、もちろん間違いではないのですが

嫌いな会社を辞めて自営業をしても、嫌な事はそりゃあたくさん起こりますし(インスタやTik Tokでの「ビジネスめっちゃうまくいってます!」みたいな事を発信している人の多くは、その言葉通りになっていないか、実はかなりの我慢や不自由を受け入れています。)

評判の良い学校に通ったとしても、卒業したら、社会にはいろんな人がいて不快なことは多い。(そもそも同じ学力、同じような経済力の家の子が集まる中で学ぶのだって「面倒」より「嫌い」の方が生まれやすい)

要するに、面倒を全部避けて通れるような人生ってそもそも実現が難しいし、仮に運良く億り人になって楽な人生を手に入れたとて、面倒を避ける人は魅力や複雑さが乏しくなるわけで、人が寄ってこず、あとは孤独のまま、長く退屈な人生をやらねばならなくなるわけです。

単純でロボットみたいな人間よりも、複雑性のある奥の深い人を、人は誰でも好みます。
その複雑性は、どんな面倒を引き受けて、どう感じて、どこからどう人生を選択したり、クリエイトしてきたか、によって作られているのではないかと思っています。

6、私が引き受ける「面倒」

私がいつもどうしているか、についてちょっと書いてみます。

私は、性格が外交的で、人と会うことのストレスが殆どないです。
初対面でも、慣れた人でも。
人と会うことが好きというわけでもないし、正直、面倒なものです。
家にいて本を読んでいるのが一番好きです。

でも、人からの誘いは、リアルなら基本的に断らないことにしています。目的がないただのランチでも、悩み相談でも。例えば、たいして好きでもない人からの誘いでも、です。

面倒の先に、それを上回る、得るものがあるのを知っているからです。
私にとって、人と会うということは、そういう意味を持ちます。
誰だから会う、誰だから会わない、という好き嫌いで線引きすることはありません。

これが自分一人だと、家から一歩も出ないです。
流石にわざわざ人を誘うという面倒は、なかなかしないですね。

そして、コンサルとか、数秘のセッションとか、仕事にしている「人と会う」これももちろん嫌いじゃないですが、しなくても生きていけるのにそれをしているのは、嫌いではなく、そして得意だからです。
続けていくうちにとても好きになったので、運良く「好き✖️面倒✖️それを上回る得るもの」になり、仕事で会えるクライアントさんは大好きです。

面倒も、得意なことであればおそらく続けていくと濃くなるし、大好きになっていくことがわかりました。

外交的な人は、内向的な人に比べてとても少なく、日本では全体の5%程度らしいです。だから、内向的なことを悩む方も多いですがむしろ普通。
無理に、社交的に振る舞うこともないと思います。
自分の好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、面倒だけどできることを、知ることが大事です。

他には何があるかというと

英語の勉強も、とてつもなく面倒です。

絶対に必要というわけではないのに取り組み始め、手強くて、何度も何度も何度も挫折してきて、ようやくここ5年は継続するようになったけれど、レベル的には初心者から抜けることなく、今に至ります。

面倒ですよ。語彙、文法、発音、リスニング。
でも嫌いというほどではなかったので、中断することがあっても、なんとか捨てずにきました。
今、ようやく「おもしろい!」が体感として得られるようになって、今後ストレスなくネイティブと会話ができるようになるのかは疑問ですが、この先、英語学習を辞めることはないと思います。

そして、ここまでやめなくて良かった。
なぜなら今、この瞬間が楽しいからです。
楽しくなるまで続けた、といっても良いかもしれません。

息子も独学で英会話を学び始めたので、親子で共通の話題が増えたことはちょっとしたボーナスにもなっています。

7、無料にした理由

私の息子は今21歳で、自由で外交的で、自己肯定感が高く、人から嫌われる不安などがなく、好きなことを選び、嫌いなことを選ばない、を徹底していて、まさに「自分を生きるタイプ」です。

こういう性格だと、人生に不安も迷いも不幸もないと思われがちなのですが、そんなことはなくて。

面倒なことを簡単に排除するのも得意になってしまうことがあります。
まさに彼は今、これのせいでちょっとした孤立した状態になってしまっていそうだなと感じます。

もしかしたらこれは、今の若い人に多い傾向なのかもしれません。
何でも、一人に一つずつ割り当てられ、不便が少なく、別の選択肢が常にあり、簡単にそちらを選べる時代。
SNSのブロック機能で、不快なものはすぐに目の前から消せる。

面倒を体験しなくても、短期的には問題のない時代。
ちょっとした勇気で、面倒をどんどん排除していけるんですが、気づいたら一人になっていて。気楽ですよ。特に一人が好きだというタイプには。
別に困らない。
でもそんな省エネの生活は何も生み出さないし、誰からも必要とされないし、簡単にいえば人生が退屈になるんですが、もう少し進むと「何にために生きているんだろう」になるし、緩やかに自己肯定感が下がるでしょう。

人って、生きる意味がなくなれば死ぬ生き物です。

だから「面倒の中に、幸せを見つけることができる」ことを知って、時々でもそれを思い出しながら生きていくことは大事、というか、意識しなければどんどん生命力が枯渇して失われていくのではないでしょうか。

もちろん、キラキラした人生の瞬間は誰にでもあるけれど、面倒を受け止めるメンタルをどこかで捨ててしまうと、終わったはずの過去の栄光にすがって、過去の自分を消費しながら生きることになってしまい、取り戻すのには膨大なエネルギーが必要になって、気がついたら取り返しがつかなくて

人生を諦めてしまうことになりかねないなと思っています。

いつもどこかで、ちょっとした面倒を引き受けられる自分でいること。
実はこれが、人生の豊かさを残す手段かもしれないと思っています。

息子はこのnoteを知らないし、知ってても読まないと思うし、知らせることも一生ないと思うけれど。
でも書いておこうと思いました。
息子にエールを送ります。
母ちゃんより。

ポルカてんちょ

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