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上杉謙信の少年から青年期迄にの事第2弾

上杉謙信は1530年に誕生し、実際の生涯において14歳から30歳までの青年期は、彼が戦国時代の日本で成長し、名声を築いていく重要な時期でした。


上杉謙信はまだこのころの名前は、長尾景虎です元々は温和でおとなしい性格とされていましたが、父である長尾為景の死後、15歳で家督を継承することとなります。この時期、彼は家族や有力な家臣団との関係を強化しました。彼は父の遺志を継いで上杉家の勢力拡大に尽力し、周囲からの期待にしっかりと応えました。


18歳の頃、謙信は武将として名前を広めるために戦に参加し始めました。彼はその軍才と指導力を発揮しました。特に、1561年に行われた越後(現在の新潟県)の川中島の戦いでは、敵国である武田信玄を相手に奮戦し、戦国時代を代表する名将としての地位を確立しました。


この頃、謙信は国を守るために戦国大名たちと連携し、同盟関係を築いていました。彼は領国経営にも注力し、民政や城下町の整備に力を入れました。また、文化や教育にも関心を持ち、学問の振興や文化人の保護を行いました。


そして20代後半から30歳にかけては、村上義清との連携を図り、武田信玄との戦が始まります、その頃信州は、長野県では信玄は信州をほとんどを切り崩してます、残りは越後に近い所だけになり、村上義清はたまらず
長尾影虎に応援要請しに来ました、影虎は義に熱いから心良く頼みを聞きこれから始まる良く皆さんも知る川中島の合戦の始まりです、


上杉謙信は30歳を超える頃には、越後国の統治においては名実ともに一国の大名として君臨し、信頼される存在となりました。しかし、彼が戦国時代の日本において果たした業績の全ては、この青年期の功績から始まったと言っても過言ではありません。


越後は、父為景の代からも内戦ばかりで統一が出来ない時期が長くて謙信が守護職と関東管領に成ると要約越後は、統一されますが彼はまだ若いから不満は絶えず、一時謙信は春日山城から抜け出し高野山に向かって妙高辺りで家来に見つかり春日山城に戻されたエピソードが有ります、元々謙信は、合戦は得意ですが、内政は全く感心が無い感じです、家来の揉め事などで悩まさられてウンザリして、坊主になって高野山に本気で向かった様です、

今回は青年期の謙信を書きましたが、次回は本当の謙信の神がかった戦いを紹介いたします
宜しくお願いします

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