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「出会いと別れ」について

こんにちは!

早稲田哲学カフェののぶです。

今回は、「出会いと別れ」について書くことになりましたので、さっそく気合を入れて2500字の小説を完成させました。

正直我ながらかなり完成度の高い小説が書けたと思いました。

しかし、投稿の当日になって、やはり小説を投稿するのをやめようかなって思いました。

少し物騒な小説なのです。

読者をいやな気持ちにさせたらよくないなと、思いました。

というわけで、投稿の当日になりましたが、急遽私の「出会いと別れ」に対する考えをだらだら書くことにしました。

去年の4月に大学に入学してから、多くの「出会いと別れ」を経験しました。

高校のような「クラス」という固定した環境がなく、知らない人に出会おうと思えばいくらでも出会える環境だったからだと思います。

気が合う友達もたくさんできました。

高校の時の自分には想像もできなかったくらいの展開です。

しかし、世の中はそう上手くいきません。

やはり、相手に期待しすぎちゃうと、期待外れになったときの失望も大きいのです。

例えば、私の学部では毎回の実験で違うペアの人と当たります。

毎回当たるペアの中には、あまり気の合わない人もいれば、意気投合する人もいます。

意気投合する人と当たれば、6時間続く実験のあいだに、ずっと話が盛り上がることもあります。

良い友達ができたな、と自分は思います。たぶん相手も思っているでしょう。

しかし、次回はいざ授業で会うと、以前のような盛り上がりは取り戻せなくなることは多々あります。

理由は単純で、話せる話題は実験の6時間で話し尽くしたからです。

そうすると、気まずくなります。

初対面のときに盛り上がった分、気まずくなったときの失望感は半端ないでしょう。

そうすると、別に仲が悪くなったわけではないですが、なんとなく疎遠になってしまします。

大学では人と関わる機会が多いですが、浅い人間関係になりやすく友達ができにくい、という意見を入学前に聞いたことがありますが、まさにこのようなことでしょう。

やはり、他人に期待しすぎるのはよくないですね。

自分のことを100%理解してくれる人はいませんし、そういうのを期待するだけ損です。

話が盛り上がったら、それはたまたまそのときに気が合っただけで、偶然な出来事なのです。

その共感した瞬間だけに、感謝をしましょう。

無理していつも話を盛り上げていくと、やはり疲れます。

正直言うと、1年生に経験した多くの「出会いと別れ」に少し疲れてしましました。

自分は人間関係でストレスをためやすいタイプですし、他の人があまり気にしないことでもけっこう気になります。

最近思ったのは、人間関係において、「共感」とか「理解」とかは、さほど重要ではないじゃないでしょうか。

いつも「共感」とか「理解」とかを求めたり、求められたりすると、疲れてしまいます。

結局自分のできた一番仲がいい友達たちは、学部でいつも一緒に授業を受ける友達です。

彼らとは、いつも他愛のない日常的な雑談しかしません。

価値観とか、恋愛とか、そのような踏み込んだ話はほぼしません。

ですので、友達や恋人は、いつも自分に寄り添ってくれるだけで十分だと思います。

「話して楽しい」とか「自分のことを本当に理解してくれる」とか、そういうのはどうでもいいと思ってきました。

話したいときに話せばいいし、話したくない時は黙っていればいい。そういう関係が最も自然体でいられる気がします。

「君子の交わりは淡きこと水のごとし」ということですね。

以上、私の「出会いと別れ」に関する考えでした。

ではまた。

のぶ

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