【短編創作小説】21世紀の後輩

「田中ァ!今日、行くぞ」

 机同士を仕切っているパーテーションを飛び越えて、部長の声は耳に良く刺さる。俺は少し首を斜め右に伸ばして、モニター越しに部長を見る。今回の「田中」は俺のことか、と瞬時に判断し、作業の手を止めて回転椅子から勢いよく立ち上がった。

「はい!もう行かれますか」

 よく空調の利いたオフィス、複数の部署が島になって点在するこのフロアのなかで、うちの部長の声はひときわでかい。声をかけられた際に頭の中で思い描いていたように、今日も彼は目玉をぎょろぎょろとさせながら、唾が飛び散る勢いで物を言う。お腹がでっぷりと張っていて、唾はすべてそこへ落ちていた。
 俺の周りのデスクにいる女性陣は変わらず業務を続けているが、部長に背を向けている目の前のショートカットの先輩が気の毒そうに顔のパーツを真ん中へギュッと寄せたのを俺は見逃さなかった。俺も心の中で、俺の顔ならぬ心臓をギュっと顰めてみる。まったく気休めにならない。

「19時に〇×商事のやつらが来るから。いつもん店だ」

 いつも通り、自分の取り巻きのみを集めた、会食という名の馴れ合いをするようだ。この会社に入って5年経ち、こういった部長からの急な主語の欠けた誘いもいい加減慣れた。はじめは勉強だと思い必死に酒やゴルフに麻雀と外交にいそしんだ俺も、5年経てば流石に違うと分かる。

「承知しました。今日は僕だけですか?」
「い~や…今日はもう一人の田中もつれていくかあ」

おやまあ可哀想に、と俺は心でひとりごちた。俺の右隣の席で書類の山に埋もれていた女性が顔を上げる。

「ミス田中!お前もこい」
「…わかりました」

 もう一人の田中さんは、空調が効きすぎているから、真夏だというのに会社既定のスーツの上から水色のカーディガンを着て、心なしか顔色が悪い。22歳の新入社員で、小柄で化粧っけがなく言動も大人しいことから部署全体で「良い子だけど、若々しさがない」という印象を抱かれている。彼女はいつもメガネをかけ髪の毛をひっつめているので、就職活動中の学生感が抜けていないことは確かだ。
俺たちは教育係と新入社員として、「ダブル田中」とセットで呼ばれながらこの数か月仕事をしていた。

「お前なあ、もっと元気出せ!21世紀生まれらしくねえなあ~
19時に新橋だから、電車調べとけ」
「承知しました」

 にこりともせず言うので、俺は吹き出しそうになるのを咳払いでごまかした。
 部長からの一言で、俺たちは今取り組んでいる資料の完成を遂げないまま金曜日を終えることが決定し、それはつまり週明けからの連日残業を意味していた。ちらりと隣を見ると、もうひとりの田中は素早く電車の時間を調べ、席を立ち「10分後に出発です」と部長のデスクまで足を運びそう伝えていた。「おう」とひとこと返す部長に踵を返し、こちらへ戻ってくる彼女と目を合わせる。唇をきゅっと引き締めた彼女を見て、俺も右の眉を少し上げる。
 彼女は仕事がよくできるタイプだと、働き始めてすぐわかった。マルチタスクを難なくこなし、エクセルの資料作成やタイピングも早い。役員らに「最近の若者はいかん」と評価され続けた近年の新入社員群のなかでは一番優秀だろう。それに、仕事を通して俺たちの間にはいい連携が生まれ始めていた。彼女は仕事を覚えるのも早かった。文房具メーカーの営業職として、すでにいっぱしの仕事をするようになっていた。
それでもなお、彼女が頑なに自己を開示せず、均質性を保ち続けることが、かえって俺に彼女の「Z世代」らしさを感じさせていた。

 それが最も表れるのが会食の場だった。

「田中は彼氏とかいるのか?」
「いないですね。」

水色のカーディガンを着たまま、田中はぐびぐびとビールを飲む。顔色が全く変わらない。
「最近の子っぽいなあ」「どういう人がタイプなの?」「年上がいい?年下がいい?」「年の差はどれくらいまでいけるんだ?」
口々にオッサンたちから飛び出る質問を、「可愛いひとです」「年上」「10歳まで」と調子よく答えていく様に俺は毎回惚れ惚れとしている。答える姿に躊躇がないのでかえって訊きがいがないらしく、また恥じらう様子もないので面白みもないのか、話を膨らませようがないのか、質問の矛先は俺にまわってきた。

「田中先輩の方はそろそろ結婚はどうなんだ」
「僕ですか?いや~なかなか…」
「まったく、こっちの田中もかよォ!」
「そんなんじゃ田中の姓が絶滅しちゃうだろォ!」

どわっと笑い声が起こる。目の前の部長、取引先の似たようなオッサン、オッサンその2、俺と似たような年次の若造、そして俺、みんなが笑うなか、隣のもう一人の田中はけっして笑わない。目の前の焼き鳥を頬張ることに集中している。4杯目のビールをそろそろ頼もうかというころ合いのようだった。俺のビールグラスはまだ2杯目で、それもなかなか減らず汗をかいていた。

「色気より食い気だなあ」
「うちの田中はねえ、女を出さないんですよ」

部長が目玉をぎょろつかせてまたセクハラに抵触したことを言い出す。俺はいつフォローに入ろうかと静観しながら、同時に決して俺に話が振られませんようにと天にも祈った。

「こいつがね、こんな奴だが背も高いし、モテそうで、しかもずっとフリーなのに、田中ちゃんは一切色目を使わねえんだ。一緒に働いて数か月経つのに。寂しいだろう田中」

俺の祈りもむなしく、部長は俺に水を向けたので、その流れで俺は「まあ、そうですね。寂しいなあ~」と適当に返すと、オッサンたちは含みを持った目で俺の隣を見た。ビールのおかわりのために注文用のタッチパネルを操作していた彼女は面をあげた。自分が注目されていることに気が付いて、一言。

「……ほかにドリンク頼まれる方、います?」
「お前なあ~~~~~」

面白くないやつだ、と部長に吐き捨てられながらも、彼女はまったく意に介さない。

「田中さんも、呑みますか」

口々にビールを頼む上司の前だったため、俺は「同じもので」と呑みたくもない酒のおかわりをお願いした。オッサンたちの話題はいつの間にか競合社の配属にまつわるスキャンダルへと話が発展していた。
俺たちの部長は次期役員と噂をされている。目の前の取引先のオッサンだってその会社の部長だし、隣のオッサンその2は社長の親族だ。それくらい隣のもう一人の田中も心得ており、俺からも一度忠告していてこれなのだ。目上の人に媚びない。自我を歪めない。自分を消費させない。きっと彼女は、1995年生まれの俺とは違う21世紀の「新人類」なのだろう。

 オッサンたちが管を巻き、時折新入社員の女の子へセクハラまがいの言葉を投げかけながら、だらしなく過ぎる時間は長く感じられる。俺はマイクを片手にそう思った。
 二軒目はカラオケ付きのバーで、若い女の子の店員がテーブルについて俺たちの会話に茶々を入れ酒を飲んでいた。こういう店は初めてだろうに、女の田中は男の田中よりもよっぽど平然とレモンサワーを煽り続けていた。彼女が頑なに歌わないせいで、俺はかれこれ3曲連続で歌を歌い続けていた。酒を飲みすぎたせいで頭は痛く、思考は鈍いまま時計は0時を越えた。終電をもれなく全員逃し、あわや朝までコースかというところで、部長は突然「おし、解散だ」とお開きを宣言した。会計を済ませ、オッサンたちは次々とタクシーに乗り込んでいく。

「田中、田中ちゃんを家までしっかり連れて帰れ」

最後に店を出た俺たちに、部長は唾を飛ばしながらそう言った。顔がにやにやと笑っていて気持ち悪い、と俺は思ったが、「わかりました」と何とか答えた。足元がふらついたが、部長が目の前からいなくなるまでは平然さを保てる、そう確信していた。やがてタクシーが俺たちの前に滑り込んできて、部長一人が乗り込み、そのままドアは閉まった。
部長の乗ったタクシーが路地の先で角を曲がり、完全に夜の闇へ消えていってから、俺はそばの街灯に頭を寄りかからせた。

「……田中さん。大丈夫ですか」
「……大丈夫ではない。……タクシー代渡すから、気を付けて帰って」

後輩に気を使わせて申し訳ない、と思いながら、俺は体重を街灯に預けながら器用に財布を取りだした。2万円くらいあれば、都内のどこでも帰れるはずだろう。まだぎりぎり2つの足で立つことが出来ていた。財布越しに俺の左足が力なく地面へ伸びているのを見て、「ああ俺の左足よ」なんて考えながら、やっとお札を2枚、目の前の女の子へ向き合い差し出した。
 彼女は差し出されたお金をしっかりと両手で押さえ、固辞した。

「お金、大丈夫です。彼女に迎えに来てもらうので」
「ああ。そうなの」

そうか、恋人に迎えに来てもらうのか、それは安全だ、そう考えながら俺は出した2枚の諭吉を再び器用に財布にしまい、飛びそうな意識のなかしっかりと鞄へ入れて、そこで少し酔いがさめた。

「……彼女」
「あ、来た」

おーい、と左手を上げて、近寄るバイクのヘッドライトへ手を振る彼女はこれまで見たことがない躍動感があった。水色の袖が揺れ、急に彼女の体から生命が溢れ出て光っているように見えた。
 だんだんと近づいて様相がわかるようになったバイクは男の自分でも操縦できるか怪しいほど大きく、黒々と夜に溶けこんでいた。しかし、フルフェイスのヘルメットを被りバイクにまたがる人物は、ジャケットの下にタンクトップを着ていて、胸のふくらみから女性だと判別できた。
 俺たちの前の路肩で機体をとめ、片手をこちらへ上げる。

「彼女です」

 俺の後輩である田中さんはそう言って、「よい週末を」と俺に別れを告げた。
 俺はとっさに「彼女かあ」と声をかけると、「彼氏ではないですから」と、俺たちを揶揄するように言い、バイクの女性からヘルメットを受け取り後ろへまたがった。操縦する恋人の腰に腕を回す顔の、なんと表情豊かなことか。

「田中さんも、良い週末を!」

俺は、さっきの彼女をリフレインするように、同じく左手を上げて手を振った。彼女からちらりと漏れ零れた私生活とその密度、喜びをトレースしたがった。
 彼女は俺へも少し笑って、そのまま恋人たちを乗せたバイクはふたりの家へ向かうべく、俺から離れ、走っていった。

そして、老いて久しい中年のオヤジたちは去り、瑞々しさを湛えた俺の後輩も去り、ただ一人俺だけ、夜に取り残されてしまった。
俺は街灯に凭れた背をずるずると滑らせ、その場に座り込んだ。
柄にもなく元気に振った左手の指先が、冷えて少し痺れているのを感じた。

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