映画『カラオケ行こ!』感想

Twitterを見ていると、原作ファンからも熱い支持を受けているなあとわかる表題の件。

さきほどふと一点思い出したことがあったので綴る。手放しの賞賛というより、「そういやあのシーンって……」とぼんやり感想垂れ流しかつ、映画版のネタバレなので、注意してください。


さとみくんが狂児に向かってブチ切れる、原作でいうと起承転結の「転」のトリガーとなるようなワンシーンがある。

終始狂児の前で無感情を貫いてきたさとみくんがはじめて怒りを露わにする印象的なシーンなのだが、原作版と映画版でその文脈が若干違ったような気がした。

原作では、「うかつに来てはいけない」と言われた土地へのこのこと足を踏み入れ、案の定痛い目を見て助けられた不甲斐なさが、声変わりを迎え部活でうまく行かない自分とリンクして苛立ちがふつふつと涌き、そこに「のほほーんと歌いや」と気安い言葉をかけられたため、爆発してぶちギレ散らかした……みたいな感じ。

一方で映画版では、部内で後輩や同級生と折り合いがつかず紛糾している「中学生」さながら等身大の現場に狂児が居合わせ、そのうえ「修羅場か?」と揶揄われたことから、いかにも思春期らしく「すけべ!」とぶちギレ散らかす……という。
きっと、その奥には原作同様に声変わりでうまく歌えない自分への苛つきや不安を、目の前のヤクザの狂児にぶつけてしまった、という要因と結果があるけれど、表面の文脈は異なる。

原作版は「のほほーんと歌いや、という一言」、映画版は「年長者のからかい」に対するぶちギレ、という構図になる。

(その代わりに、映画版では、うろ覚えだけれどコカイン星人との邂逅のあと、屋上で2人談笑する素晴らしいシーンが差し込まれたはずだ)

この改変は映画館で見ていて「おっ!」と驚いた。
というのも、原作では終始2人の関係値だけ描かれていたのが、
映画版ではさとみくんとそのほか同年代の人たちの関係値にも多く言及をしており、
それがストーリー上で最も影響したシーンだと感じたからだ。
私は原作が好きなので、その改変に少し戸惑いはありつつ、昨今物議を醸す「作品の二次利用の可否」としては良い方向へ着地し応えた作品だと客観的に感じた。

原作があり、それを二次利用する。
そのとき、原作を完全に踏襲して、ただ漫画のコマにならい映像化するのか?
答えは大抵NOだ。
映画となれば決まった尺があり、映像化に伴い一部表現の自粛があり、また時期によっては時代設定の見直しがあり、とにかく原作そのままは難しいだろうと素人でも考える。いろんなご都合があるだろう。
そして1番大きなポイントとして、映像化に携わるクリエイターの自我を無視できないこと、があるんじゃないか、と私は思う。
このシーンはこういう流れで撮った方がいいんじゃないか、という感覚。
この改変に合わせ、こういったシーンを映画では独自に差し込んだ方がいい、という感覚。
このキャストを起用するのであれば、こうした演技指導のもと、こういう演出にした方がいいんじゃないか、という感覚。

もちろん作品は0から1を生み出した人が1番偉いので、その人が嫌だと言えば全ては棄却されるべきだ。それは間違いない。
それでも、アニメや実写といった二次利用の場には、それに携わるクリエイターが原作からインスパイアされ、新しく生まれるものがあることは、どうしようもないんじゃないかな〜と考えた。

それよりも、そうした事実がどのように原作者に説明され、原作者がどのように受け取るかどうか、それが問題なのではないだろうか。

本作品については、それがうまいことできていたのかな、と素人ながら思ったりしたのだが、どうだろうか。

というぼやきでした。

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