【創作短編】海で一服



「今回の取り組み以降もぜひ、御社とご一緒させていただきたく思いますので」

 引き続き何卒よろしくお願いします、と言い放った先輩は、隣に並んで座る弊社側の僕から見ても「頼りになる取引先の若手社員」だった。笑うと僕から見える左頬にえくぼができて、ニカっと効果音が聞こえてきそうなほど爽やかだ。
 これまで先輩の企画提案に耳を傾けていた、目の前に座る初老の男性もそのように感じたらしく、満足げにうなずきながら「こちらこそ、よろしゅうお願いします」と賛同の意を口から漏らした。その隣に座っている部下らしき眼鏡の男性も、特に異論はないようだった。
 新規の取引先へ自社の文具製品を扱ってもらうべく、僕たちは関東から大阪まで営業に来ていた。梅田駅にあるビルの会議室で、関西弁コテコテの先方の調子にあわや飲まれるかというところだった。しかし先輩はいつもと変わらず、その人懐こさと、裏がないと万人に感じさせる爽やかさで商談をまとめ上げようとしていた。もちろん、その弁舌に欠点がないのは言うまでもない。
 完全に先輩のおまけとして付いてきた入社半年の僕は、先輩が話すあいだずっと議事録を取っていた手を止め、隣の先輩に倣って腰を折りぺこぺことしながら、ぎこちない笑みを浮かべていた。学生気分はまだぬぐえず、ビジネスの場ではいつも自分の不自然さを意識してしまう。そういう時は、いつでも隣の先輩を盗み見ている。頭髪は営業職らしく短く清潔感があり、その顔つきも疲れがない。しなびやかな体躯を包むスーツは特別高級品というわけでもなく、裾からのぞく時計も実用性重視のアップルウォッチだ。ただ革靴のみピカピカと光っていて、物に疎い僕でも「良いものなんだろうな」とわかる。それがなんとなく、先輩へさらに好感を持たせてしまう。

「このあとは、すぐ東京の方に帰らはるんですか?」

頭は動かさず目線だけを下に落とし、貰った名刺を再度確認して、「目の前のおじさんは取締役社長だったのかあ」と心でひとりごちた。先輩へなんとなくこの後の予定を訊く様子から、僕はこのおじさんたちともしや梅田で呑んで帰るのかと一瞬期待をする。
「そうですね、明日も業務があるのでこのまま新幹線で戻ります」
「そうかあ、ざんねんやなあ」
次の機会やな、という先方の発言に、今回は先輩と一緒に僕も心から「そうですねえ、ぜひ」と口々に呟く。せっかく大阪まで来たなら長居をしたかったが、そうはいかないらしい。
じゃあ、そろそろ、と言葉を交わしながらお互いに席を立つ。
取締役社長とその部下は僕たちとエレベーターホールまで連れ立ち、僕たちは別れを告げた。お互いにぺこぺことお辞儀をしあうあいだをエレベーターの扉はピッタリと断絶させ、僕と先輩はまっすぐ姿勢を戻して狭い箱のなかほっと息を吐いた。

この、取引先や上司の範疇外にある時間。
僕にだけ、先輩から聞こえる秒針の音がある。
時限爆弾の残りタイマー音と言ってもいいかもしれない。
チクタク、チクタク。そろそろ、0に限りなく近づく。そろそろだ。

「ごめん、ちょっと」
足元にかかる重力がふわりと浮く感覚に合わせて、僕は「開」の扉を押していた。それと同時に、なんとなく予感をしていた僕は、隣の先輩の顔をニヤニヤしながら仰ぎ見る。
「休憩いきましょうか」
「そうなんだよ。このあと移動長いし、新幹線乗るしさあ……」
そう言いエレベーターの扉をくぐりながら、ビルから出てもいないのに、先輩は革張りのかっこいいリュックからアイコスの入ったポーチを取り出した。
僕はやっぱり呆れ半分、同情半分で笑った。

 先輩はまるで海中の酸素ボンベのように、陸でニコチンを定期的に吸わないと生きていけない。
 2000年に生まれ、物心ついたころには「禁煙!禁煙!」と声高に叫ばれていた世の中で生を営んでいた僕にとって、先輩が毎日ニコチン不足と戦い続けているさまははっきり言って滑稽だった。
 僕たちの会社のビルが全面的に禁煙になっているせいで、いつも先輩はタバコを吸いに近くのカフェチェーン店へと逃げ込む。喫煙ブースで毎日同じコーヒーを飲みながらアイコスを吸っているのだ。
 取引先へ赴く際は必ず前後で一服をする。残業後1時間かけて家に帰る際も、「俺、一服してから帰るわ。また明日!」と僕に一言声をかけ、ぬるりと人波から姿を消すのだ。業務中に「トイレ行ってくる」と言って10分帰ってこなければ、僕は「ああタバコ吸ってんなあ」と察し、負けじとデスクで間食をしている。僕には喫煙の習慣がない。

 新入社員として入社してから、先輩とはずっと行動を共にしていた。そのためか、僕は先輩のニコチン残量がなんとなく可視化されわかりはじめている。
 少し早口になり始めたとき。両手が手もち無沙汰げに組まれすり合わされるとき。いつも翳のない顔つきが少し曇ったとき。
 どれも微々たる違いだ。きっと社内で先輩とこんなにも四六時中過ごした社員はいないだろうから、ほかの人は気が付いていないだろう。
 陸でしか生きられない僕たちが、水面で必死に息を吸うように、先輩は必死にニコチンを吸っている。きっと、嫌煙ぎみのこの社会で生きる喫煙者は皆そう生きているのだ。どんなに偉いひとだって、横柄な人だって、僕の尊敬する先輩だって……。

梅田の街中、公衆トイレの横にある喫煙スペースから少し離れたベンチで、僕はそんなことを今日も考えながら先輩の蘇生を待った。秋も深くなり少し肌寒かったが、手には先輩に奢ってもらった缶コーヒーがあったので、あと少しなら平気な顔をして待てそうだった。

「ごめんなあ、待たせてえっ」
先輩の珍しく大きく張った声が喫煙スペースの柵を越えて僕まで降ってくる。
周りにあまり人もいないので、僕も負けじと大きな声で返事をする。
「全然、大丈夫ですよっ」
「いつもいつも、めんどくさいだろうっ」
「いや、それを言うなら」

当事者である先輩本人の方が、面倒な思いをしているだろう、と僕は言いかけて、流石に余計なお世話だと言葉をひっこめた。それに、先輩にとってどんな生活の煩わしさにも勝るほど、その娯楽は必要なのかもしれない。朝起きて、身支度をして、電車に乗り、仕事をして、電車に再び乗り、家に帰る。ニコチンと共に暮らしている。

「さ、お待たせ」
そう言って、変わらない爽やかさを振りまき姿を現した先輩にあずかっていたリュックを渡しながら、僕はぽろりと「僕も吸おうかな」と口走った。

「ええっ。なんでえ」
「だって、こういうとき、僕も吸えたらいいじゃないですか」

そう言いながら、「吸えたら、なにが良いんだ」という明確な答えは用意できていなかった。
先輩が吸っているから喫煙者になるだなんて、学生時代じゃないんだから、と冷静な自分の思考が脳裏でツッコミをする。

言ったきり無言になった僕に対し、先輩はリュックの紐を肩に通しながら空を仰いだ。そして、
「そんなん、アカン」
と真顔で言いながら、僕の頭にチョップをした。

「アカンですか」
「そう。アカン」

僕のオウム返しに、負けじと先輩も返す。二人とも埼玉出身なので、「アカン」のイントネーションがとても気持ち悪い。

「そっか。アカンかあ……」
「君は、お菓子でも食べてなさい」

育ち盛りなんだから、と言って、ポケットから飴を取り出しこちらへ渡した先輩に、そんな仕込みまでしていたとは、と僕はやっぱり感心をする。きっと大阪出張に浮かれていたのは僕だけではないのだ。

先輩の息継ぎが終わったので、僕たちはふたり、東へと帰るべく歩き出した。


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