私は本を読む

中学一年生の冬、まだ12歳の時に私は親の転勤で県を跨いで転校した。クソ寒い北陸から、西へ。
当時、私はひと夏で3キロも太り、おでこに吹き出物が数え切れないほどできていた。性格も、かなり悪かったと思う。自分に自信がないのに、人をとにかくバカにしていた。
だから転校先では痛い目を見た。人間関係がうまくいかず、とにかく面倒なことばかり起きた。どう立ち回るべきかもわからず、鈍臭く居座り続けていた。

人生で一番本を読んでいたのはその時だったと思う。

もはや、それは厨二病にかかった者の「本を読むインテリな女」というレッテル作りではなかった。とにかく縋るように読んで、読んで、読み続けていた。図書室の文芸作品コーナーにある文庫本を片端から、とにかく読んだ。そのほとんどはもはや忘れてしまった物語ばかりだけれど、本離れの進む今では稀有な若者の代表格なのではないだろうか。

なぜそんなことを急に思い出したのかというと、今朝ちょっとしたミスをして部長にお小言を頂戴し凹んでいて、その帰り道によしもとばななの『キッチン』を読んで救われたからだった。

ミスは些細なものと言うには心当たりのあり過ぎるものだった。言い逃れはできなかった。これまでの人生経験で、「すごく小さな手抜きだけど後々面倒なことになりますよリスト」みたいな ものの一番上にあるようなことだった。「なんで今回にかぎってやっちゃったんだろう」と後悔もした。
でも帰りの電車に揺られながら、物語の世界に浸かれば、自我を放り出すことができた。私はこれまでに培った恐ろしく深い集中力と、活字からなんとなく風景をごく自然に想像し並行させながら物語を読む力があった。

もしかしたら、私は辛いことがあって凹んでも、本を読めばいつの間にか大丈夫になっているのかもしれない。
もしかしたら、12歳の私は、そうやって救われていたのかもしれない。
そのことに、22歳の私は気がついた。
22歳の私も救ってくれ、本よ。

きっと、明日からも私の目の前に現れ過ぎる人たちは、私が没入してやまないこの世界を知らない。
もし知っていたとしたら、私は相手に敬意を持ち、好きになるだろう。
知らないならば、知らない人として、私とは別の窓から世界を見ている人なのだと差別をすると思う。
この作戦で、明日からも、世知辛く面倒くさく果てしない労働という社会的行動に従事することにする。


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