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みけこの散歩14(承認欲求のこと)

心に湧き起こる物事を自分の言葉で形にして、そっと人目に触れる場所に置く。

noteに投稿するとき、私である事の証明は付けなくていいから、頭からスッポリ着ぐるみを着たような、そんな安心感をまとっていていい。


ただ、公開する時は舞台袖からみんなの前に出るぐらい、大いに緊張するし、プレビューで見て書き直してを繰り返し、公開するボタンを押す時は心拍数が上がっている。
顔が分からないとしてもいい加減な気持ちは一切ない。

そうして、知らない誰かからスキをもらえたり、フォローしてもらえたりするのがすごく嬉しい。


先日親しい仲間内のLINEで、ついnoteの事を打ち明けてしまった時に出された言葉…承認欲求

自慢でもなんでもなくて、最近始めた私の楽しみのことを話したかった。

でも、知り合いに言うのはあまりよくなかったかも知れない??

別に悪いことをしているわけじゃないし、私自身の名前と顔を晒しても問題になるようなことを書くつもりはないが、ただそれにより周りの誰かをも晒すことが怖いし、一番は気恥ずかしいから。

どこの誰が書いているか分からないから、気まぐれに感じたことや思い出を私の好きな言葉を並べて載せられるのに。

ちょっと後悔だけど、言っちゃったものは仕方ない。
ほんの身近な人にも読んでもらえるのは嬉しい。

多分私だけに向けてではなくて、行き過ぎたSNSのつぶやきなどに対して出たであろう、承認欲求という言葉。

でも、とたんに私の心は針でつつかれたみたいにしぼんだ。
調子に乗ってしまったと後悔した。

そしてその言葉が小さなトゲになって刺さって抜けなくなってしまった。

やっぱりSNSに投稿なんてしているのは承認欲求が強いに違いないと思われただろう。

承認欲求が強いなんて、いい歳して恥ずかしい?
恥ずかしがり屋のフリをして実は出たがり?
やっぱり辞めた方がいいか?と弱気になる。

果たして承認欲求は悪いことなのか?

みんなが好きなように発信できる世の中。

プロの作家さんではない人たちのいろんな言葉や写真が面白い。
ほんとにたくさんの人たちが、たくさん記事を書いている。

私もいいか、承認欲求強め上等!と、またこうして書く。

なにしろ書くのが楽しいから。

遠い思い出も、さっきの経験も言葉に書き出すと私の中で大きくふくらんだり、細かく噛み砕かれたり。

誰にも見せない日記ではないから、言葉選びの緊張感とその事に対しての思考の深まり。

よく考えるという作業をすることによる気持ちの抑制と制御。

なにかしら作っていると言う感覚。

そして、それを誰かに読んでもらえる喜び。

それでいいかな?
このトゲを行き過ぎた表現や、勢い余って浮き上がってきた言葉をおさえるストッパーにして。


初めて投稿した時に載せたプランターの花は、冬を越えて前よりいっそう溢れんばかりに花を咲かせている。
私しか観ないベランダで。

だから、もったいないからnoteの通り道を行き交う人にも観てもらう。

あれからも毎日次々と蕾をつけ、元気に咲き続けてます。

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