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海
汚れた海の向こうに走る二本の高速道路。その下を大型の貨物船がゆっくりと進む。
午後3時のバカみたいに陽気な風の吹く突堤の上で、鉛のような身体をコンクリの上に投げ出した。
立ちこめた灰色の雲が広がる空の下、数字の書かれたヨットの帆が何艇か、まるで白波に捕まった蜻蛉(かげろう)のように揺れている。
近くのソース工場の匂いがたまに鼻をついた。
コンクリの生暖かさを背中に感じながら、仕事のことをいつまでも考えている。
どこへでも行ける、でもどこにも行けない。
28という年齢は何かを決めるには中途半端な歳だった。思い切って飛び出すほどの瞬発力はなく、かといってここでやっていこうという腹を据えるほどの胆力も無い。
春先に3年ほど付き合った彼女と別れた。お互いに嫌いではなかったがどうしようもない事情があった。そのような事情で好きな相手と別れることがある、ということが驚きであった。
純粋な想いだけでは前に進まないことがある、それが社会なのだ、と母の手紙に書いてあった。
その時「世間」、というものを知った。
真っ黒な海鳥が、汚れた海に、何度もダイブしている。濁った海に泳ぐ魚を、そいつはどのような目で見つけるのか。
それからしばらくしてある夜に、文章らしきものを書いた。
「不幸、というやつはまるで月のようにどこまでも追いかけてくるのだ。逃れようとしても影のように追い付いてくる。我々にできるのは、酔っ払いのようにただ、その影を踏んで踊ることだけだ。」
その一文を皮切りに、まるで堰を切ったように言葉が溢れてきた。それから1年近く、休みになると午前中は市営のプールで泳ぎ、午後から文章を書き、夜にはホームページに載せる、そんな生活が続く。気づくとその数は100本近くになっていた。
生きるとは、そもそも「苦」である
そのことが100本近いエッセイの基底にあった。しかし、不思議と言葉にして、吐き出して、明瞭な形にしていってみると、人生は捨てたものではない、と思えるようになる。
不幸に見える日々の中で、ほんの一瞬、わずかな福音が訪れる。
それがたとえ、苦しみに満ちた風景に見えたとしても、丹念に拾ってみるとそこには必ず、雲間からこぼれる一筋の光があったことがわかる。
黒く汚れた海の白波の上を光の粒が走る
あの時の海で見たように。
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