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湊かなえ著 母性 を読んで

昨日、図書館から三冊本を借りた。三冊とも湊かなえの本だ。先日、本屋で「ダイヤモンドの原石たちへ 湊かなえ作家15周年記念本」を買い、その作品紹介の中で気になった作品があったからだ。
湊かなえの作品は末娘が置いていった蔵書の中に二冊ありどちらも既読だ。「贖罪」と「白ゆき姫殺人事件」である。ものすごく読後にやるせない思いになったのを思い出す。
本屋で湊かなえの本を買おうと思ったのは、本屋巡りをしていて、平積みになっていたので、手に取り、インタビューの記事を読みたかったからである。
借りてきたのは「母性」と「ブロードキャスト」と「ユートピア」の三冊。「母性」から読み始めた。
文体は読みやすいのに、読み進めていくうちに重苦しい気持ちになった。娘であり、母であり、祖母でもある自分が追い詰められていくようなそんな気分だ。
読み進めては一呼吸おきと、一気に読み進めるには私には重すぎた。でも、最後まで読まないといられないそんな気分にさせる本だ。
読み終えて一言
こわい。
私はそこまで母性の人になれないことにホッとした。本当にホッとした。
私は母であることも娘であることも中途半端に一抜けたした人間であることを自覚した。
母としていきていくのも、娘として生きていくのも重い。
女として生きていくのには、辛いことが多すぎた。
障害者として生きていくにも、闘争者として生きていくにも中途半端な立ち位置である。
どう生きていったらいいのか、迷っている。

風のような人と昔の同僚に言われたが、生き方において自分の居心地の良さを一貫性よりも重視してきたからかもしれないと今思う。
ただこの本を読んでいなかったら、母として生きるのが正解と思っていたかもしれない。この本はその生き方の底知れない怖さのようなものを教えてくれた。
以前、教会で聖書のことを学んでいた時に、失敗を学ぶ大切さを旧約聖書で教わったけれど、そんな、この道の先に未来はないけれど、その道を通らないと人間としての学びは完成しない矛盾のような、一言で片付けられない複雑な気持ちになった。
今も真綿で首を絞められてるような息苦しさの中に生きている親子に是非読んでほしい作品である。
でも、その怖さが素直に通じない人が多いのではないかという恐怖もある。