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子供を産んだ責任

子供を産んだ以上、育てる義務が親にはある。遺棄したら保護責任者遺棄罪になる。新生児の場合は目を離したら死んでしまうかもしれない。

誰もそんな重い責任取りたがらない。少子化の一途をたどる一方である。

子供を産んだ責任は重くのしかかる一方、産まないときにはおとがめなしである。親や周りから何か言われるかもしれないが。

私は先だって孫の世話までした。子供を産んだ以上死ぬまで責任がのしかかる。
生きがいなんて言葉で言いくるめられるが、好きなように生きられたら誰だってそうするだろう。

私だって馬鹿じゃない。

残りの人生は私がやりたいことだけやりたいようにしようと決めている。

介護も母が粗相をした時の後始末やゴミの処理などをする以外の世話を一切しなくなり4か月目。話しかけられても無視している。
宅配弁当もあり、生協も週に一度配達してくれる。
姉が不定期に母の世話をやきに来るので、その時だけ、姉の手伝いをするが。

それでも母なりに洗濯にしろ、洗い物にしろ自分でやっているので、いい運動と張り合いになり、かえって長生きの秘訣のようになっている。
週に一度のデイサービスで同世代の人とおしゃべりを楽しんでいるようなので、健康そうである。

介護も育児も女の仕事と決められてるわけではないのに、女ばかりに責任の比重が重く、私自身も何十年と誰かの世話をする人生を歩まされてきた。

誰も頼んできたわけではないけれど、専業主婦でいた間は働く夫に代わって子育てを、夫亡き後はなお責任もおもくのしかかり、子育てが終わったと思ったら介護。

やりたいことがあった人生ではない。娘三人を社会人として世に送り出せたのは私の誇りである。

ただ、残り少なくなってきた自分の人生を振り返り、数々の不幸の連続による不運を少しは嘆いてもいいのではないかと思ったのだ。

あまり恨みとかつらみとかそういうマイナスの感情をもってこなかったけれど、神を呪ってもいいのではないかと思う。

私は素直じゃないし、偏屈だしおよそいいところない人間だけど、気の毒な人を放っておくことはしなかった。心が痛むくらいならば自分の身を粉にしてことにあたってきた。

大嫌いな母の世話にしても、過去に私に酷くあたった長女が夫とうまくいかなくて頼ってきたときも、散々悪態をついた三女の私立高校の学費や私立大学の学費を爪に火を点すやりくりで捻出した時も、私の側には拒否をするだけの言い分はあった。

でも、しなかった。ただかわいそうだから。それ以外の理由はない。

これだけ不幸のデパートの私でも目の前にかわいそうな人がいれば助けられる。

だから、あらゆることに正当な言い訳というのはない。というのが私の持論である。

私は子供を産んだ責任というのを果たし、産んでもらった恩を返す、ただそれだけをしているに過ぎない。

やってしまえば心は軽くなる。

やらないでいて心の錘を感じたくないからこそ、歯を食いしばってやってきたにすぎない。

だから、私には小説は書けない。

何故なら、心の葛藤がないから。

だいたい、名をはせた文芸者たちは家庭人はごくわずか。できない、しない葛藤があるからこそ、大衆の心を打つ文章が書ける。

私はあらゆる人に筆を持ってほしいと思っている。

心の葛藤、恨み、つらみそういうものを昇華する力が文章にはある。

剣よりも銃よりもあらゆる武器をもってしても、それを凌駕する力がペンにはある。

しいては世界が平和になる道がある。

私はたぶん、子供を持たない選択をした人の目の上のたんこぶになっている。そのことは自覚している。

そういう人の心の葛藤の文章を読んでみたい。

そして、産まない人生があることを心の底から羨ましいと思う作品を読んでみたい。

まだ残念ながら出会っていない。

子供を生み出す以上の責任ある仕事というのはあるのか。

私には考えつかない。

不妊の人もいるからこの問題は一方だけの主張だけだと片手落ちになるが、不妊の方は子供を責任もって育てない人と子供を産めるのに産まない人とどちらの方に憤りを感じるのか、人によって違うと思うが聞いてみたい。

上からの押し付けでなく、自分の思いとして、子供を産む、産まないということを一人でも多くの女性に考えてほしい。

子供を産むのにはタイムリミットがある。よく考えてほしい。

私と同年代で子供を持たなかった知り合いは、自分には子育ては無理だと思った、と言っていた。出会いがなかったとも。

子育てが親の責任になってしまう世の中は生きづらい。

難しい、でも生涯かけて追っていきたいテーマの一つである。