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娘たちのこと その二

今日は娘たちが子供の頃に習っていたものについて書こうと思います。
娘たちにはピアノとスイミングを習わせていました。ピアノ教室は1990年に建てたマイホームの近所に、個人で教えていたピアノ教室があり、そこに通わせていた。良心的な金額でそれぞれの個性にあった楽曲で教えてくださった。例えば長女はバイエル、ブルグミュラー、ソナチネと普通に進んでいたが、次女は楽譜通りにピアノを弾くことが苦手で、ちっとも進まなかったが、ある日、音階を耳コピでシャープやフラットも正確に弾けると気づいてからは、バーナムの楽譜に変わり、シャープが6つも7つもつく楽譜をすぐに軽々と弾いていた。三女は年長の時に、実家のある土地にUターンしていたので、お教室に通うのは、途中で断念して、私は習ったことがないピアノを実家にあったグラビノーバで見よう見まねで三女に教えていた。中学では吹奏楽部に入部したので、譜面読みなどはそこで覚えたようだ。娘たちは毎日30分、何があっても復習のために、習得のためにピアノの練習を続けていた。娘たちには叩かない育児を心がけていたが、ある日、長女がピアノをいやいや弾いていたので、頬を叩き、真面目に練習しないならば辞めなさい、先生に失礼です。といったことがある。長女はビックリしてすぐにピアノ教室に駆け込んだ。近所の長女の同級生のお母さんでもあった先生はすぐに家に来てくれて、私は落ち着くことができた。長女はやめることなく、中三までピアノを続けた。次女は一度も叩いたことがない。長女もその時に一回だけである。三女に関しては、正直にいうと何度も叩いてしまった。余裕がなかったと言えばそれまでだが。
ピアノに関しては、私の思い入れが強すぎて、申し訳ない気持ちが先に立つ。
次に子供たちに習わせていたのは、スイミングである。これは週に一度車のある土曜日に夫に送迎をお願いして通わせていた。長女も次女も四泳法をマスターしてやめた。三女に関しても途中引っ越しを挟んだが、別のスイミングスクールで四泳法をマスターしてやめた。これに関しては、健康のためと幼いうちは高い水遊び代と割り切って楽しんで通わせていた。後になって知ったのだが、次女は幼稚園の時に選手クラスへの推薦を受けたらしいのだけど、毎日通わなければならないからと、自分で辞退していたらしい。私が車の運転ができたならば、よかったのかもしれないが、精神疾患の薬を飲んでいたので、頑なに夫が私が車を運転することを拒んでいたのだ。夫はある自動車メーカーのテストドライバーをしていたので、車は凶器だからという彼の言葉に従わざるを得なかった。
他に、子供たちへの教育として、うちにはテレビゲームの類は一つもなかったし、ビデオデッキすらもなかった。子供たちの年齢のお子さんをお持ちの方はきっと、ゲームとビデオがなかったらどう子育てするの?と疑問だろう。今ならばスマホやタブレットなしの子育てである。おもちゃがなかったわけではない。お人形や積み木、お絵かきの道具、などはある。人様の家に行けばあったゲームやビデオなどを娘たちがねだることはなかった。大体が家が娘たちの友達のたまり場になっていたから、子供たちは実子もそうでない子もわらわらとたくさんの子がいた状態である。そこで多くのことを子供たちは学んだ。
こちらに越してくる頃には長女や次女は家に友達を連れてくる年齢ではなかったが、転校しても友達関係でトラブルになったりはなかった。三女に関しては、うちのお母さん、子供が大好きだからと毎日のようにちょっと変わった子を連れてきては家で遊んでいた。誕生会を一度だけ、三女の時に友達を招いて行ったことがある。誰を呼ぶかは三女自身に任せた。絶妙なキャスティングでとても楽しく過ごせたのを思い出す。
さて、以上が子供の習い事周辺の話である。
もう、昔ばなしである。孫に関しては、困れば助けるというスタンスの元、来れば歓待するが来なくてもいい、あくまでも長女夫妻が主役であるから。
コロナ禍もあり、孫には数えるほどしかあったことがない。それでも、元気であればいいやと思っている。
誰の参考にもならないかもしれないけれど、記録のために記しておく。
何故、ゲームが家にないかと言えば、長女が赤ん坊の時に、夫の次兄から送られてきたのだけど、私がやってみて、クリアせずにあっけなく落ちていくマリオの喪失感に、これはやらせないでおこうと決めたからである。人生にはリセットボタンはないからだ。
ちなみに三女は、友達の家でスーファミやらマリオカートやら遊んでいたようである。三歳の時に、まだ字も書けない読めないのに、キーボードをたたき、マウスをクリックして、お絵かきしていたから、彼女はかなり電脳されているかもしれない。