見出し画像

映画が導く言語学 1           「コーダ あいのうた」(Coda)

『コーダ あいのうた』(Coda、2021年公開のアメリカ映画)の主人公は女子高生ルビーである。彼女はマサチューセッツ州の海辺の町グロスターで両親と兄と一緒に暮らしている。父母も兄もみな温かく仲良し家族である。ただルビーの家族には他の多くの家族と違うところがある。それはルビー以外はみな耳が聞こえないことである。このため家族の中で唯一耳が聞こえ手話もできるルビーは、家業の漁業を毎日手伝い、家族のために色々な場面で通訳の役割を果たしてきた。つまりルビーは耳が聞こえない親を持つ子供、つまりコーダ(CODA=children of deaf parents)である。

さてルビーは、気になる同級生のマイルズと同じ合唱部に入ると、顧問のV先生は彼女の歌声に惚れ込む。秋のコンサートではマイルズとデユエット曲を歌わせ、さらに名門のバークレー音楽院のオーデイションをぜひ受けるよう勧め、個人レッスンを申し出る。しかしルビーの家族は生活が楽ではない。両親はルビーの歌を聞くことができないので彼女の才能がわからない。一緒に住んで漁業の手伝いを続けてもらわないと生活できないと考え進学に反対する。しかしルビーは歌を簡単に諦められない。同時に家族の将来を案じて葛藤する。やがて彼女は両親と衝突してしまう。

ルビーの家族のようなろう者はどの国にも存在する。ろう者同士は手話言語でコミュニケーションを行うのがふつうである。しかしその人口は全人口の1%に満たない。つまりマイノリテイー(少数派)である。どの国でも耳が聞こえる人が多数派である。この多数派を前提に社会は作られているため、耳が聞こえない人や聞こえづらい人にとっては住みにくい。彼らの不便さと苦労は聴者にはなかなかわからない。

この映画でルビーの家族を演じた3名の俳優はろう者である。彼らの母語は(アメリカ)英語ではなくアメリカ手話(ASL)である。父親フランク・ロッシを演じたトロイ・コッツアー氏はこの役で2022年3月に男性のろう俳優として初めて助演男優賞をとっている。「私たち(ろう者)はASLを外国語みたいなものと説明します。私たちは外国人であり、たまたまアメリカに住んでいるのです」とコッツアー氏はインタヴューで語っている。

耳の不自由な人のコミュニケーション手段は主に手話、筆談、読話(読唇術)および音声(補聴器・人工内耳)の4つと言われる。手話は「手指や顔の動きを用いる自然言語の一種」であり、世界にはおよそ140の手話が知られている(『明解言語学辞典』三省堂)。なお手話では手指が多くの役割を果たすが、手指以外では口、目や眉による表情が否定、命令、肯定などの重要な文法的意味を表すことがある。さらに上体も使われる。自然言語とは、日本語や英語のような自然発生した言語のことであり、人工言語(例えば、エスペラント語やプログラミング言語)と区別される。

手話は世界共通と考える人がいるが、各々の手話は異なっていて相互理解ができない。日本語と英語が互いに通じないように日本手話とアメリカ手話では相互理解ができない。手話には方言もある。手話は、科学や文学を語るだけでなく卑語や下ネタも表現できる。『コーダ あいのうた』の中でルビーの父親フランクは集会で「このクソ野郎!」と手話で毒づき、それをルビーに通訳させている。また映画の終盤で合唱部の顧問V先生はフランクにYouTubeで覚えたての手話で“It’s nice to meet you.”と挨拶しようとするが、誤って右手でV字を示しために“It’s nice to f**k you.”(あなたと性交してうれしい)と表現してしまう。

人間には、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり五感があることは良く知られている。人間はこれらの感覚を様々に組み合わせて人間の知覚を成立させているが、五感のうち言語の理解に使われるのは聴覚と視覚、触覚である。つまり聴覚のおかげでわたしたちは音声言語を、視覚のおかげで文字や手話を、触覚のおかげで点字を理解できる。しかしすべての人が聴覚、視覚、触覚の3つを十分に使えるわけではない。自分は「健常者」だと思っていても高齢になると耳が遠くなり目も悪くなりやすい。

人間は長い年月をかけて様々なコミュニケーション手段を工夫してきた。しかしいかなるコミュニケーション方法にも利点と弱点がある。音声言語は聴者には便利だが、騒音や轟音の中では聞こえない。話声をめぐってトラブルが起こることがある。手話なら窓越しでも騒音の中でも話ができる。しかし手話は目が見えない人には使えないしマスクをしていると表情が読めなく理解が妨げられる、

この映画は人間社会が抱えるたくさんの問題に触れている。家族とは何か、子供の自立と子離れできない親、ヤングケアラー、マイノリティ、そして異文化間コミュニケーションの問題。バークレー音楽院へのオーデイションでルビーは「青春の光と影」(英語タイトルは”Both Sides Now”)を歌うが、2階のバルコニー席に忍びこんだ両親と兄を見て、手話を交えて「わたしは雲を両側から見てきた。上と下から」、そして「わたしは人生を両側から見てきた」と歌う。この映画の中で「両側」(“Both sides now”)という言葉は、1階の審査員席と2階のバルコニー席、つまり音のある世界と音のない世界、を象徴するようにも感じられた。

この二つの世界の架け橋であるルビーを、この映画の観客は応援せずにはいられないだろう。

<ポイント>
・コーダとは耳が不自由な親の子供を意味する。
・手話は自然言語であり、ろう者の主要なコミュニケーション方法である。手話は世界共通ではなく方言の違いもある。
・言語の理解には、聴覚、視覚、触覚という3つの感覚を使う。これらの感覚を利用して人間は多様なコミュニケーション方法を工夫してきたが、どのコミュニケーション手段にも利点と弱点がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?