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映画が導く言語学 2          「マイ・フェア・レデイ」と「舞妓はレデイ」

「いんでちゃん、カイベツの味噌汁飲むかい」と祖母が聞いた。「いんでちゃん」とは私のことである。本当は「ひでちゃん」だが。「カイベツ」って何だろう?貝だろうか?、などと考えながら鍋の中を覗きこむとそこにはキャベツが入っていた。祖母は生まれが秋田であった。若い時にまだ幼かった私の母を連れて札幌に移り住んだらしいが、秋田弁の強い訛りは消えなかった。祖母は自分を「おれ」、ハタハタという魚を「はんだはんだ」と言い、電話には「もすもす」と答えた。私の母は札幌に来た当初、顔を「つらっこ」と言って近所の子供に笑われたと言う。

方言が映画の題材になることがある。もっとも有名なのは「マイ・フェア・レデイ」ではないか(1964年作、アメリカ映画)。これはあまりにも有名なミュージカルだがロンドンが舞台である。主人公の女性、イライザは粗野な花売り娘だが、上流階級の淑女に仕立てるために言語学者のヒギンズ教授からコックニー訛りを直すための特訓を受ける。「舞妓はレデイ」(2014年作、日本映画)は明らかにこのパロディ映画だが、こちらの舞台は京都である。主人公の春子は独特の鹿児島弁と津軽弁を話すが、一流の舞妓になるために師匠からは歌と踊りの、言語学者の京野教授からは京都弁の、それぞれ猛特訓を受ける。

ひと口に方言といっても地域方言と社会方言の二種類がある。地域方言とは、地理的な分布を伴って生じる方言であり、社会方言とは、職業、階級、年齢、男女の違いなどを含む特定の社会集団に伴って生じる方言である(『明解言語学辞典』三省堂、p.206)。「舞妓はレデイ」で聞こえてくる京都弁や鹿児島弁、津軽弁は地域方言である。「マイ・フェア・レデイ 」のイライザが話すコックニー英語は地域方言であり社会方言でもある。コックニー英語とはロンドンのイースト・エンドの英語であると定義するなら地域方言だが、もしロンドンの労働者階級で話される英語と定義するなら社会方言である。コックニー英語は実はロンドン(の一地域)だけではなくイギリスの他の地域やオーストラリアでも耳にする。コックニー訛りの英語では、hの音が脱落したり/ei/が/əi/や/ai/となり、“Oh, he’s your son, is he?” (あの子はあなたの息子なのね)は “Ow, eez, yə-ooa san, is e?”のように発音し、“Will you pay me for them?”((花代を)私に払ってよ)は “Will ye-oo py me f’them?”のように発音する(マイ・フェア・レデイの原作Pygmalionの中のイライザのセリフ)。

「舞妓はレデイ」の中で、春子は好意を寄せていた京野教授が実は自分を利用していたことを知らされる。傷ついた春子に京野が「よう出てきてくいやったねえ。あいがとねえ」(=よく出てきてくれたねえ。ありがとね)と春子に鹿児島弁で話しかけるシーンがある(『舞妓はレイデイ』幻冬舎文庫、p.143)。しかし「マイ・フェア・レデイ」のヒギンズ教授は、イギリス人が口を開くと即座にその出身地を当てるほどイギリスの言語事情に精通しているがコックニー英語でイライザに語りかけたりしない。この教授(や上流階級の人々)にとってコックニーは「無教養で粗野な」労働者階級の人々の言葉なのである。この種の階級の違いは鹿児島方言や津軽方言と標準日本語の間には存在しない。

方言と言語は何が違うのだろうか。実は、両者を完全に区別するのは不可能である。相互理解が可能なら同一言語の変種、つまり方言で、相互理解が不可能なら二つの異なる言語と考えるなら単純明解だが、この判定法は必ずしも役に立たない。セルビア語とクロアチア語の話し手は相互理解が可能だが両者の使用者は別の言語とみなしている(『明解言語学辞典』三省堂, p.206)。生粋の鹿児島方言の人と生粋の秋田方言の人では話が通じないだろう。

方言について最近、興味深い研究成果が報告されている(松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』、角川ソフィア文庫)2020年)。この著書によると、方言主流の社会の自閉症の子供は、家族は方言を話すのに共通語しか話さない。この現象の理由はまだ完全に説明できないようだが、一つに、方言主流の社会では方言は親密な相手に使う言葉であり共通語とはよそ行きの言葉であり、その一方で、自閉症の人は家族を含め他者と直接的な人間関係を築くのを苦手とし、一人でテレビやネットに触れる時間が長くなること、さらに、自閉症の人は相手の意図を読み取り自分の意図を伝えるのが苦手であることが関与するようだ。

著名人でも方言や訛りで苦労をした人は少なくない。作家の井上ひさし氏は大学入学のために上京したが東北訛りを理解してもらえなくて吃音症になった経験を書いている。初代のジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーは役作りのためにスコットランド訛りを矯正したと言われる。「鉄の女」の異名をとったイギリス初の女性首相、マーガレット・サッチャーはイングランドのリンカンシャー州の雑貨商人の娘だが、地方訛りを直し「立派な政治家」に相応しい英語で国民に語りかけたが、議会でのやりとりなどで興奮するとつい地元の訛りが出たそうだ。現代は「多様性」を尊重する時代のはずだが、方言や訛りで苦労する人はなかなかなくならない。

<まとめ>                                

・「マイ・フェア・レデイ」と「舞妓はレデイ」はどちらも方言をテーマとしたミュージカル映画である。

・方言には地域方言と社会方言の二種類がある。               

・コックニー英語とは英語の方言のひとつであり、社会方言と地域方言の両面を併せ持つ。

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