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母、97歳。

 明日は、約1ヶ月半ぶりで実家の母に会いに行く。私と30歳ちがいの母は、今年の誕生日で97歳になった。足腰が弱くなり、耳は遠いが、気持ちはしっかりしている。毎日、母とは電話で話す。
 父を見送って今年で15年。長生きするということは、親しい人に先立たれるということでもある。仲良くしていた母より若いお友達が、一人、二人と先立っていく。その寂しさを想像はしてみるものの、きっとその場にならなければわからない気持ちなのだと思う。兄一家と同居しているおかげで、娘の私は毎日の電話と、月に1回程度の実家への帰省で、母とのおしゃべりを楽しむ。
 弱ってきたと言いつつも、私からみたら、母はシャンとしている。30年後の自分がもし生きていたなら、とても叶わない気がする。イマドキの娘は、「お母さん、元気なら幾つでも長生きして欲しいわ」とのたまう。そこは誰もが思う。でも、老いることは確実に体が弱っていくことに他ならない。めんどくさがり屋の私は、自然に逆らわずに生きてきたので、体に悪いことをしている自覚はないが、かといって自らを鍛えようと頑張ることもなく、最低限やらねばならないことと、やりたいことだけをして生きてきた。きっと、これからもそうなんだろうなぁと思う。
 なので、やりたいことが見つかると、嬉しい。何が恐怖かというと、やりたいことが何も見つからなくなる日々を迎えることだろう。義務感で何かをやることが苦手な自分だけに、やりたいという思いはとても大切だ。そしてもう一つは、何もやる気がおこらなくなることだ。
 読みたい本、見たい映画、会いたい人、行きたい場所、食べたいもの、聞きたい音楽、着たい服、ささやかな欲望を満たすことが、日常を生きることだと思う。そして、疲れた時はのんびりする、眠くなったら寝てしまう。明日すればいいことは、無理せず今日はしない。
 さて、でもやらねばならないことはどうする?やらねばならないことを、やりたくないことにはしたくない。やらねばならないこととは、それをしないと1日が回っていかないことだろう。今のところ、なんとかやらねばならないことと、折り合いをつけているが、この先どうなっていくのか、わからない。が、未知なる自分に出会うのもまた、生きていればこそ。その時、書くことが自分を救うことになるとしたら、こうやって誰が読むということもなく、自分のために、駄文を書き続けることに意味があるのかもしれない。
 
 

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