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新聞滅亡へのプロセス(3) 組織ジャーナリストを考える

#新聞滅亡へのプロセス

 日本型ジャーナリズムは、記者・ジャーナリストという「個」の集合体によって報道機関としてのメディアを機能させているのか。それとも、新聞社、放送局という会社組織の「駒」としての記者の活動によって報道機関は成り立っているのか、との本源的な問題を孕んでいる。

 記者がジャーナリストとしての「個」を確立できなくなっている実態について朝日新聞を例に考えてみよう。

「駒」としての組織ジャーナリストと南記者の「絶望」

 昨年11月1日、朝日新聞の南彰記者が退社し、琉球新報に入社した。同日の深夜0時半に南は、朝日新聞に所属する複数の社員や記者に「退社のごあいさつ」と題した文書をメールに添付した。その宛先は、中村史郎社長と角田克専務の二人。それ以外の人たちにはBCCで送られた。週刊文春の昨年11月6日電子版オリジナルが、文書全文を公開した。

 「退社のごあいさつ」にはこう書かれている。「今の朝日新聞という組織には、絶望感ではなく、絶望しかない。ただこの『絶望』ときちんと向き合えば、朝日新聞の本来あるべき姿を取り戻せるかもしれません。沖縄からそのことを願っています」

「なにより、自らの足元で権力者の顔色をうかがい、自由を簡単に手放す集団は、市民が自由を奪われていくことへの感度も鈍り、決して社会の自由な気風を守っていく砦になることはできません」

 南が、朝日という「全国紙」から琉球新報という特色のある地方紙へ転職することに対し、激励とともに同情を寄せる声もSNS上で散見された。しかし、朝日での南の最後のポジション、コンテンツ編成本部次長から琉球新報の現場記者に戻る選択は、南自身にとっては、ここ数年の間に熟成された必然だったのではないかと推察する。

 南は、自著「報道事変」のあとがきで書いている(注1)。

「新聞社の幹部や一時代を築いてきたベテラン記者は、『余計な波風を立てないでほしい』と、本書に眉をひそめるかも知れない。私はこの春、40歳になったが、『現場の記者としてあと5年ぐらい』と考えれば、こんな新書を書かずに、昭和型のスタイルを維持して逃げ切った方が一記者としては得だったかもしれない」 

さらに「この本で描いてきた官邸を中心とする政治部の取材より苛烈な現場がある」と述べ、沖縄東村高江地区の米軍ヘリパッド移設工事で、沖縄の日刊新聞2紙の記者が機動隊に拘束された事件を挙げた。そして「こうした権力の暴走に対して、2紙が紙面でも抗議を展開し、必死に食い止める状況が続いた」と記した。

「2019年5月 日本復帰47年目を迎えた沖縄で」と書かれた同書は、こう締め括られている。「日本のメディアが変われるのか、それとも沈んでいくのか。その可能性は半々だと思う。でも、前者の可能性を信じている」

 ユーチューブへ転出する記者たち

 新聞社、通信社といった組織ジャーナリズムの中にいる記者に対する、出版など個人の自由な活動は、かつてないほど厳しく制限されるようになっている。一方、報道機関では厳しい経営状況の中、社員の早期退職制度の導入などが図られている。

 朝日新聞も例外ではない。近年、ベテラン記者が退社し、ユーチューブ上でニュースを発信する例が増えた。こうしたジャーナリストたちは、記者クラブ制度や組織ジャーナリズムのあり方について、厳しい批判を行う傾向にある。

 例えば、鮫島浩。1971年生まれで94年に朝日新聞入社。支局を経て99年に政治部記者、2010年政治部次長となる。12年に特別報道部デスク。13年東京電力福島原発事故に関連した「手抜き除染」報道で、新聞協会賞を受賞。

 14年に原発事故をめぐる東電の「吉田調書」を扱った報道で、停職2週間の処分を受け、記者職を解かれる。2021年に退職し、ウェブメディア「SAMEJIMA TIMES」を立ち上げ、ニュース解説、メディア批判などを行っている。

 先週の4月12日、ユーチューブのテーマはメディア批判だった。
【マスコミの闇】小池知事の学歴詐称疑惑を報じない真相~都知事と都庁記者クラブの歪んだ関係を元朝日新聞政治部デスクが暴露!だからマスコミ不信は止まらない!

 2022年には「朝日新聞政治部」(講談社)を出版。「崩壊する大新聞の中枢」として退社への経緯や朝日新聞の内情を詳しく書いた。それにはこうある。

 「朝日新聞はネットの言論を軽視し、見下し、自分たちは高尚なところで知的な仕事をしているというような顔をして、ネット界の反感をさらにかき立て、ますますバッシングを増大させたのだ」(注2)

 他にも、ユーチューブ「Ark Times」編集長の尾形聡彦や「一月万冊」の佐藤章など朝日出身のジャーナリストがいる。

朝日新聞の事前検閲、出版禁止


 南記者は、昨年、朝日新聞は(職員の)出版などすべての表現活動について、編集局長室が事前検閲を事実上義務付けた、と書いた。

 朝日新聞に勤める青木美希は、昨年末にX(旧ツイッター)でつぶやいた。

 「皆様の励ましで、先月、『なぜ日本は原発を止(や)められないのか?』を出版できました。ありがとうございました。勤務時間外に個人として取材し、執筆してきましたが、勤務先の新聞社に出版不承認とされ、それでも覚悟して出した本です」(注3)

 この本の「帯」にはこうある。
「安全神話に加担した政・官・業・学 そして、マスコミの大罪!」

 「原発はなぜ始まったのか」という章に、こうした記述がある。

 「日本では1956年に原子力政策の決定機関である原子力規制委員会が総理府に設置された。読売新聞社社主として知られる正力松太郎が委員長に就任し、湯川が初代委員となった」

 湯川秀樹は1949年に「原子核の理論的研究に基づいて中間子の存在を予言」してノーベル物理学賞を受賞した科学者だ。

 「日本学術会議では、『原子力発電に関しては、これはあくまでも慎重にかまえて、自主的な研究の積み重ねの上にその実現を達成すべき』との意見があがっていた。しかし、正力は1956年1月4日の原子力委員会初会合の直後に、『(今後)5年目までに第一号原子力発電所を建設する』と発言し、早期実現のために原発の『輸入』を主張した。それに対して湯川らは『まずは基礎研究の充実を』と反発した」

 この本では「原子力ムラ」とメディアのかかわりについても述べられている。そこには、朝日新聞が新聞における原子力PR広告の先駆者であり、そこから全国の新聞に原発推進広告が掲載されるようになった経緯や朝日の原発に対するスタンスとその変化などが書かれている。 

 青木はXで自らをこう紹介している。職歴:北海タイムス(休刊)→道新→全国紙。警察裏金取材班で菊池寛賞、各取材班で新聞協会賞3度。『地図から消される街』で貧困ジャーナリズム大賞、日本医学ジャーナリスト協会賞特別賞など3賞。

 ここに書かれている道新とは北海道新聞、全国紙とは朝日新聞のことだ。

 青木の略歴に、筆者はある感慨を持つ。それは、日本の戦後新聞史の一面と日本型ジャーナリズムの特徴が透けて見えるからだ。

 現在の日本の新聞状況は、1943年までに政府による新聞統合によって、形作られ、それは今に至るまで変わっていない。ひとことで言えば、戦争遂行のための国策により、それまで日本各地に数多く存在した新聞は、例外を除き1県1紙となった。

 青木は、ジャーナリストのキャリアを北海タイムスで開始した。北海タイムスは、北海道毎日新聞などを源流に1901年に創刊された伝統ある地域紙だ。国家総動員法・新聞事業令による戦時統制が進む中で、他の道内10紙とともに、1942年に北海道新聞に統合された。

 1945年の日本の敗戦により、日本を占領したGHQは一時、朝日、毎日、読売や新聞統合で創設された1県1紙といった既存紙を抑制し、新興紙を育成することにより、地方分権的な民主化を推進しようとした。

 北海タイムスは、戦後、1946年に北海タイムスに勤めていた人々の手で、新北海として創刊されて、49年に北海タイムスと改題した。

 しかし、戦後新興紙ほとんどは、既得権益を持つ全国紙、県紙との競争の中で経営的に行き詰まり、休刊という名の実質的廃刊に追い込まれていった。

 北海タイムスは1988年に休刊、青木は北海道新聞に転職した。道新で青木は北海道道警の裏金問題追及の取材班に所属し、道警が「都道府県報奨費」、国の「捜査費」を「裏金」として組織内にプールし、警察幹部が自在に資料できる資金づくりを暴くキャンペーンで一翼を担った。キャンペーン報道取材班は2004年の新聞協会賞はじめ、菊池寛賞、JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞を受賞した。

 ところが、北海道新聞の経営幹部は、道警と秘密交渉を行い、訴訟に発展すると「おわび広告」が道新の一面に掲載された。キャンペーンのデスクを務めた高田昌幸は北海道新聞を退職した。このいきさつは、高田の書いた「真実 新聞が警察に跪いた日」に詳しい。(注4)

 同書文庫版の解説で、共同通信出身のジャーナリスト青木理は「新聞協会賞を授賞した新聞業界では道新支援の声はほとんど広がらなかった。それどころか、北海道でライバル関係にある全国紙が道新の苦境を逆手にとり、道警側におもねって取材を有利に進めているといった話が飛び交うありさまだった」と記している。
 新聞記者が取材した内容で記事化したものを核として、新聞記事に書ききれなかった内容をまとめ整理し、書籍化することは、新聞自社の出版局や系列出版社のみに限らず、地方も含め、多様な出版社で営々と行われてきた。名著も少なくない。

 日本には一般日刊紙として全国紙5社と100社を超える地方紙・地域紙が存在する。しかし、個人として複数紙を購読する読者は極めて少ない。

 新聞各紙には、読み応えのある連載記事が数多く掲載されている。しかし購読紙以外の他紙の連載記事を読みたいと思えば、図書館に通わなければならないし、そもそも他の新聞でどのような連載記事があるかを知る機会はほとんどない。

 さまざまな新聞記者が執筆した読みごたえのある記事をもとに、多様な視点で書かれた書籍は、社会の知識ニーズを満たす上で重要な役割を果たしてきた。

 こうした書籍は、記者クラブで発表される素材のみで生み出すのは、ほぼ不可能で、記者自身の問題意識と記者クラブの枠組みを超えた不断の取材活動の賜物ともいえる。

週刊誌と新聞記者の関係


 一方、各省庁の記者クラブに属する記者が取材を通じて入手した情報で、自社で紙面化できなかった情報は、「週刊文春」「週刊新潮」など週刊誌への流され記事となったり、記者自身がアルバイト原稿として書くのも珍しいことではなかった。

 新宿や谷中・千駄木、新橋などの「隠れ家」バーで、雑誌編集者と新聞記者の「情報交換」が行われていたのを筆者は何度も「目撃」している。

 2015年1月に発行された「朝日新聞 日本型組織の崩壊」(文春新書)は朝日新聞の「病巣」として社内状況が「週刊紙」的に綴られている。この本は、2006年に秋山耿太郎社長の元で策定・強化されたコンプライアンス規定や内部通報制度と運用について詳しい内容を説明している。この本の著作者名は「朝日新聞記者有志」。(注5)

 「現役の朝日新聞社員複数名を中心とする取材グループ。社内での経歴、所属部署、『カースト』、政治的スタンスなどのバックグラウンドは全く異なるが、『朝日新聞社の病巣はイデオロギーでなく、官僚的な企業構造にこそ隠されている』との点では一致している」と奥付にある。朝日新聞記者有志とは、文春に情報を提供、あるいは執筆していた記者たちであると想像に難くない。

50年を経て、朝日・共同が読売を後追い

 報道機関の組織ジャーナリストが執筆する書籍に対する社の事前検閲、出版禁止は朝日にとどまらない。

 共同通信の石川陽一記者は、長崎市内高校でのいじめによる自殺に関する書籍を文藝春秋から出版し、その中で、共同通信加盟社である長崎新聞の報道姿勢を批判した。共同は、社外執筆許可を取り消し、本の重版を認めず、石川を記者職から外した。

 共同通信社は全国の地方新聞にニュース記事を配信する社団法人だ(毎日新聞、産経新聞も加盟社)。一時期は、最も自由な気風を持つメディアのひとつとして知られていたが、会員社への配慮から石川を槍玉にあげた。そして「社外言論活動に関する規定」を改定し、書籍のゲラなど社に提出を求める条文を新設したという(注6)。

 これまで、多くの組織ジャーナリストが、取材結果をもとに幾多の著作を世に出してきた。そのひとりが読売新聞主筆で「新聞界のドン」とも呼ばれる渡辺恒雄だ。

 渡辺は1958(昭和33)年に最初の著作「派閥 保守党の解剖」(弘文堂)を書く。渡辺は大野伴睦の懐刀と呼ばれる政治記者だったが、何度か大野の代筆をしたことを自らの「回顧録」で公然と明らかにしている。(注7)

 「大野伴睦回顧録」(1962年、弘文堂)の一部。そして大野が総裁公選で池田勇人に負けた時に「サンデー毎日」に書いた大野の「陰謀政治は許されない 伴睦ここに大死一番」(1960年7月31日号)という「手記」については、すべてを自らが書き、大野の名前で世に出たと渡辺は述べる。(注8)

 そのころ、渡辺は、「サンデー毎日」「週刊現代」「週刊文春」「文藝春秋」などに原稿を執筆しており、大野の代筆で「サンデー毎日」に書いた記事は、自身が勤務する読売新聞の月給が2万円のところ原稿料は30万円だったと懐古する。

 また1971年にワシントン支局長から帰国し、編集局参与となった10か月間は「毎日のように僕のところに週刊誌や月刊誌の記者や編集者がくるから、原稿依頼を受けて、もう一日中書きまくったよ」と述べている。

 渡辺は「回顧録」で、吉田内閣末期に、読売新聞社主の正力松太郎から「朝日出身の緒方は許せない。緒方の批判を書け」と命じられたする。緒方とは、朝日新聞社主筆・副社長から戦時中に国務大臣・情報局総裁、戦後は第4次吉田内閣で内閣官房長官、副総理などを勤めた緒方竹虎のことだ。(注9)

「もちろん、いまはそんなことはないですよ(笑)。そんな命令を下したこともない。だけど当時は、個人を攻撃の対象とした理不尽な命令がきたんですよ」「編集局長を通してくる。ひどい命令だよね」

 しかし、渡辺は編集局次長兼政治部長になった1970年に、部下に対し、週刊誌に内部原稿を書くのを禁止した。

 朝日新聞、共同通信といった社内言論を比較的自由に保障してきた「リベラル」と言われる新聞、通信社が、50年を経たいま、渡辺の方針を後追いし、読売に倣ったとも言える状況だ。

 筆者は、組織ジャーナリズムとしての新聞内における不自由な環境は、真綿で首を絞めるように、ここ30年で徐々に醸成されてきたとみる。組織ジャーナリストの苦境は、「不自由さ」を増す日本社会の動きと連動しているとも言える。

 その日本社会の言論をリードしてきたのが、新聞だという事実は、歴史の皮肉としか言いようがない。



*このブログで使用する写真はすべて、筆者が通訳案内士・ネーチャーガイドとして各地で撮影した写真を使用します。今回の写真は沖縄宮古島与那覇前島ビーチを泳ぐ魚影。

注釈(参考文献)
(1) 南彰は1979年生まれ。2002年に朝日新聞に入社。政治部や大阪社会部などで政治取材に当たり、新聞労連の委員長となった。朝日新聞に復帰後は、政治部国会・野党担当などを務めた。著書に「報道事変 なぜこの国では自由に質問ができなくなったか」(2019年 朝日新書)「政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す」(2020年 朝日新書)など

(2) 「朝日新聞政治部」 2022年 講談社

(3)「なぜ日本は原発を止められないのか」 2023年 文春新書

(4)「真実 新聞が警察に跪いた日」 2014年 角川文庫

(5)「朝日新聞 日本型組織の崩壊」 2015年 文春新書

(6)「Tansa | 探査報道 (tansajp.org)

(7)引用はすべて「渡邉恒雄回顧録 2007年 中公文庫」御厨貴監修

(8)大野伴睦は1890年生まれ、1964年没。衆議院議長、北海道開発庁長  官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。

(9)「新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩」 2007年
 朝日新聞社 今西光男著
 「占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎」 2008年 朝日新聞社 今西光男著


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