自己愛はあっても自己肯定感は低い人

 近年、「自己肯定感」という言葉は日常的に使用されるようになってきました。そして「自己肯定感」という概念が浸透する中で、”自己愛がある=自己肯定感が高い”、という方程式が成り立つと思われがちではないでしょうか。しかしこの方程式が当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいるというのが今回のテーマです。後者、つまり当てはまらない側である私の見解を書かせてください。というか自分語りをさせてください。もしちょっとでもお暇があれば、こんな奴がいるんだな、とさらっと知ってくれたら嬉しいです。

 私は自己愛が強いと認識しています。これは、今まで周りの人に恵まれ、けなされるよりも褒められることが断然多かったことに起因していると感じています。自分のことが好きですし、自分が自分のことを愛してあげなかったら誰が一生愛してくれるんだ?と思っています。例え自分がどれだけダメでも、理想の自分になれなくても、何度も自己嫌悪があったとしても、最終的には自分を愛することができると自覚しています。それゆえ、自分は自己愛が強い部類でしょう。

 しかし、自己肯定感となると話は変わります。自己肯定感とは自己を肯定する感情・感覚、つまり自分を認められる感覚ということでしょう。いきなりですが、私は自他共に認める完璧主義です。完璧主義で良かったと思うことは全くありません。完璧主義ゆえに、隅々まで正確にやろうとするから効率は悪いし、力の抜き方がわからない。一つのことを完璧にしないと次のことに移れない。そして完璧主義は、自己肯定感にも悪く影響しています。自分が自分に抱くイメージと、現在の自分とで、そこの間に大きな乖離を感じたとき、どれだけ今まで自己肯定感を積み上げてきたとしてもそれは一瞬で崩れてしまうのです。自分が思う自分がそこにいないと、それが自分だと認められない。そうして、「自分って何も無い」「ゴミの掃き溜めみたいだ」などというループに入ってしまう。しかしそのような時でも、自分が大嫌いなのか、価値がないと思うのか、といえばそうは思っていない。自己愛自体は存在している。しかし自己否定が止まらず自己肯定感は地に落ちる。このような、一見アンビバレントにも見えることが起きてしまいます。

 人の感情を「自己愛」や「自己肯定感」などといった簡易的な言葉で片付けようということが野暮なのか。理屈を見出すことも難しい、相反する心情を持つから人間らしいのか。理論と感情は、突き詰めてしまえば相容れないのか。こんなことを考えても意味がないのか、無謀なのか。よくわかりません。でも、人の心情について考えることが、意味なんてなくても単純に楽しいのです。一瞬一瞬で変わっていく心情は意味がないように思えて、一瞬一瞬しか存在しないから希少価値があるのではないでしょうか。書き留めなければ誰からも忘れられてしまう、存在していなかったことになってしまう、そんな感情は日々生まれては消えています。人によって、時によって、一つとして全く同じものが無い感情は、現代の経済的ビッグデータよりも膨大な気がします。そこに何かロマンというか、魅力を感じませんか。

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