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個性的な女の子 2


最初は、しゃーなんて言っていたまんちゃんだけど、最近はちょっと慣れて、遊んでくれるようになった。
でもやっぱり怖がりだね。
いいよ。
ゆっくり仲良くなろうね。

小学校3年の時。
その女性教師2人の顔は、まだ覚えている。
1人はHといって、学級担任だった。
その頃、40過ぎくらいだっただろうか。ひょっとしたら、もっと若かったのかもしれない。
他の生徒には笑顔を見せても、私に対する時には、いつも能面のような表情だった。
忘れられないのは図工の時間に、父の日を前に父親の顔を描くよう、言われた時だ。
私の父は、私が5つの時に病死した。
何を描いたらよいのか、わからない。下を向いたまままの私に、Hは吐き捨てるように言った。
お母さんの絵を描きなさい。仕方ないでしょう、いないんだから。
我慢していた涙が、どっと溢れた。
体育の時間、前へ習え、がまっすぐ出来ていないと、舌打ちされ、腕をピシャリと叩かれたり、何か発言しても否定されたり、手を上げても、目を逸らされて無視されたり。
もう1人の女性教師にも、よくきつい物言いをされていた。顔は覚えているが、名前は覚えていない。副担任だったのか、何だったのかも覚えていない。Hより関わることは少なかったのだが、嫌味な物言いと、私に向けられていた冷たい目つきは、記憶に残っている。
何が原因だったのか、当然わからない。
大人になって、やはりそれもよそ者に対する攻撃だったのかもしれない、とは思い至ったのだが。

嫌われていると気づいても、どうすることもできなかった。
小学校3年の生徒にとって、教師はそれだけで、高い壁のような存在だったのだ。

もともと消極的な私だったが、どんどん萎縮していったように思う。
たとえ問題が解けて、自信があっても、挙手はしなくなっていった。
おどおどして、いつも下を向いていた。
夜寝る前、毎日布団の中で祈った。
明日、嫌なことが起きませんように。
切実に祈っていた。

実はS君のこともそうだが、これらの事をいじめと呼んでよいのかと迷った。
もっと過酷な目に遭って、命を絶つ人たちも後を絶たないのだから。

現在のいじめの定義を調べてみたら、

“被害者が、心や体に苦しさや痛みを感じたらいじめ”

だそうだ。
「ハラスメント」と同様、昭和と現在では捉え方はかなり違うとも思うが、S君のことはともかく、女性教師たちの言動は、やはりいじめであったと私は思う。

4年生になると、中年の男性教師が担任になった。特に私を意識することなく、普通に接してくれた。
5年生の時は、新任女性教師だった。若い先生らしく、理想にあふれた指導だった。もちろん、いじめやひいきなど、論外だったと思われる。
徐々に、いじめに対する恐怖は薄れていった。
にも関わらず、私は小学校3年生の自分から、逃れられなかった。
やはり私の私たる礎は、その頃に形成されたのだろう。
勿論、いじめのせいばかりではないことは確かだが、自己肯定が上手くできず、些細なことで傷つき、屈託し、それをひた隠すために無駄な努力を重ねていた。

社会に出てからも、個性的だとか変わり者だとか、独特とか、よく言われてきたが、独創的な何かを持っていたわけでもない。
人と深く関わるのは怖かったので、いつも構えて人と向き合っていた。
よくわからない人、変わっている人と思われても、仕方なかったかもしれない。
今となってはそうも思えるが、若い頃はただそんな言葉に傷ついて、生きづらいと長く思っていた。

しかし、最近やっと、自身の呪縛から抜け出せつつある。

歳を重ねたせいでもあるし、世相も随分変化した。

他人の評価など、実にいい加減なものだ。他人はいつも、無責任に言いたいことを言っているだけだ。

多様性の時代だし。
平凡とか平均的とかフツーとか、よく考えたら、そんなに褒め言葉でもない気もするし。
明るく元気な人も、ウザいとか言われたりもするんだし。

そんなふうに、思えるようになってきた。
そう思えるということは、遅ればせながら私は私を、やっと肯定出来てきたと、言えるのかもしれない。

思い掛けず、50年以上前の私に会いに行けた。
会いに行って、良かったと思う。
まんちゃんのおかげかな。
ありがとう。
まんちゃん。




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