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【福冨渉先生】「教養講座 タイ文化のいま」備忘録

(注)レポではなく備忘録です。自分の中で紐付いたお話しをあれこれ繋げて書いている上、自分の解釈と感想を多分に混ぜ込んでいるので、実際の講座の時系列とは全然違うことになっていると思います。ここに書いているものの他にも貴重なお話がたくさんありました。とにかく忘れないうちにと思って打ち込んだ文章です。ほぼ感想文だと思って頂き、諸々どうかご了承ください。


福冨渉先生との一方的な出会いは、1年と少し前のこと。私のタイドラマ初視聴から3ヶ月後、初めて参加したタイ俳優さんのファンミーティングで通訳をされていた方が福冨先生だった。

それから今に至るまで、福冨先生にはタイ俳優さんのイベント通訳や「The Miracle of Teddy Bear」の翻訳・解説などで、いつもいつもお世話になっている。トンチャイ・ウィニッチャクン先生の講演など、福冨先生のおかげで触れられた世界もたくさんある。私のタイ沼は福冨先生と共にあると言っても割と過言ではないくらいの憧れの人だ。あっという間に満席になったらしいこの講座、申し込みが間に合ったのは幸運だった。

さて当日。「皆さんはタイにどんなイメージを持っていますか?」から始まった講義は冒頭からピリッと刺激的だ。私の記憶が正しければ、福冨先生はこんなふうに言っていた。

「ビーチリゾート。タイ料理。寺院と象。あとは、性的に多様であるとか思われがちですよね」

うわ、怖い。これは鋭い話が飛び出してくるぞと背筋が伸びる。そもそも私は「The Eclipse」が最推し作品で「The Miracle of Teddy Bear」が刺さりまくったような人間だ。“福冨先生独自の見解です”という注釈がつくような話が聞きたくてたまらない。“独自の見解”じゃないものは旅行ガイドブックに書いてあるし、日本のテレビ番組でだって見ることができるから。

福冨先生も仰っていたように思うが、物語の歴史的・社会的背景を知らず、ただエンタメをエンタメとしてのみ消費するよりは、様々な立場からの考え方や捉え方を知っていた方がきっといい。

“タイ”の意味するもの

まずは“タイ”が指すものは2つあるという話から。発音や声調を間違えると“タイ王国”ではなくて“死”を意味する言葉になってしまう、みたいな笑い話かと思ったら、そうではない。

【タイ人】
①タイ王国に住んでいる国民のこと
②タイで多数派であるタイ系民族のこと

タイにはさまざまな民族の人が住んでいて、タイ語(中央タイ語)を話す人たちだけではないという話だ。中華系の人がいることは(SNSに中国名が併記されている俳優さんもいるため)何となく知ってはいたが、それ以外には深く考えたこともなかったトピックだ。

そしてどこの地域出身であるかが、そのまま社会階層に繋がったりもするという。例えばラオ語(イーサン語)を話す東北部の人々がそれだけで低く見られたり、深南部の人々がテロリストのように扱われることもしばしばあると。

こちらは福冨先生が紹介して下さったショートフィルム「I'm not your fxxxing stereotype」。深南部からバンコクに引っ越してきた女の子が、出身地や外見、服装のことで差別やいじめを受ける物語だ。

地域と言葉と社会階層。その話を聞いて、私はあるキャラクターのことを思い出した。「The Miracle of Teddy Bear」のチェアさんだ。東北タイ出身のチェアさんは、自分の言葉を中央タイ語に矯正しようと努力している。けれどもうまくできなくて、時々イーサン語が出てしまうことに自信を無くし続けている。

「The Miracle of Teddy Bear」にはソファさんというキャラクターもいて、そちらはタイ語と英語のちゃんぽんで話す。洗練されている印象を与えるためだ。私はこれまでチェアさんの葛藤は、ソファさんのそれと同じような個人の中で生まれた感情の話だと思っていた。だが違う。チェアさんの背景にあったのは、自己否定がどうとかいう話ではなく、社会があるグループの人をどう見るかという固定観念によって自信をなくしてしまった人の話だ。

講座後半の質問タイムでは、タイでは日本よりも明確に外見や使う言葉から社会的立ち位置が判断されて、レッテルを貼られてしまうことがあるというお話もして頂いた。

何が怖いって、このような“知っていればきっと分かるけれど、知らないと見逃してしまうような大事なこと”が「The Eclipse」にも「The Miracle of Teddy Bear」にも、あといくつあるのか全く見当がつかないこと。絶対にまだ何か色々と見落としている。どおりで見直すたび、読み直すたびに作品の印象が変わるわけだ。Prapt先生恐るべし。

他にも“タイ”は“自由”を意味する言葉だというが、その由来はどこにあるのかというお話や、タイの国旗のこと、“タイらしさ”(Thainess)とは? というお話も。歴史や地政学的な視点から見たタイについても、もっと知りたいと思わされた。

タイ料理のこと

私たちがタイ料理と呼んでいるものたちの発祥が必ずしもタイというわけではない。

今年の初め、知り合いの大学生の何人かがタイに卒業旅行に行くということで、常日頃からタイ人の推しの話をあちこちでしていた私に、色々と尋ねてきてくれた。そのうちの一つがこれである。

タイ料理って何が美味しいですか?
これは絶対食べとけみたいなのありますか?

私はそれにこう答えた。

トムヤムクンやパッタイは有名だよね。デザートだとカオニャオマムアンが美味しいよ。マッサマンカレーは“世界一美味しいカレー”に選ばれたことがあるって聞いたことがある。私は食べたことないけど、ソムタムっていうパパイヤサラダも人気みたい。でも個人的にはカオソイが一番好き。北部のカレーラーメンで、本当にめちゃくちゃ美味しいよ。炭水化物の暴力だけど、せっかくだから是非食べてみて。

その時に挙げた料理がことごとく、タイ起源ではないとされるものだという福冨先生のお話に驚いた。わざわざ旅行中にご飯の写真を送ってくれたり、帰国後に何が美味しかったと報告までしてくれた大学生たちに“なんかごめん”の気持ちがすごい。

タイ料理の起源が必ずしもタイではなかったとしても、美味しいことには変わりないし、好きなものは好きでいい。ただ、福冨先生の言葉を借りれば、料理というトピックひとつとっても“一枚岩のタイ”というものは存在しないのだなと実感できたのが面白いかった。

言われてみれば“マッサマン”という音の響きにはペルシャ語っぽさがあるような。どうして今まで気づかなかったんだろう。

新宿で食べたトムヤムヌードル

男女らしさやジェンダーのこと

タイの“性に寛容”のイメージってどこから来たんだろう?という話。

まずは男らしさと女らしさについて。日本が開国したのと同じ頃、タイも西欧諸国に対して開かれた国になった。当時のタイ人は女性も男性も同じような格好や髪型をしていたことから“野蛮だ”と揶揄されて、西洋的な価値観に則った“女性らしさ”や”男性らしさ”の規範が作り上げられていったという。

今でもタイの学校は校則が厳しく、髪型も決められてる場合がほとんどだと。タイの女優さんには艶やかなスーパーロングヘアが美しい方が多くて憧れるのだが、その辺りにも“女性の髪は長くあるべきだ”とか“長い髪こそ美しさの象徴”というような規範意識の名残があるのかもしれない。

それにしても、校則とはいえ幼い頃からロングヘアをキープするのは大変だろう。長くなればなるほど、美しく保つためには手間もお金もかかるのに。長ければそれでいいわけでなくて“長く美しく”なければならないのだとしたら、ちょっと酷な要求をされている気がする。

その後、第二次大戦頃には更に西欧化が推し進められる。伝統楽器を演奏することなどが制限されるようになった時期もあるそうだ。それを題材にした映画に「風の前奏曲」があるとのこと。この映画で主人公が演奏する楽器はラナートという木琴だそうだが、確か「Bad Buddy」の演劇シーンに出てきたものではなかっただろうか。

ちなみにパッタイが考案されたのも同じく第二次大戦の頃だというお話だった気がするが、若干記憶が曖昧で調べてみたところ、まさかの名前に行き合った。パッタイを生んだプレーク首相って、もしや「The Eclipse」でアーヤンとワーリー先生が議論になった時に出てきた“プレーク元帥”か!? 衝撃の再会すぎる。しかもこの方、相模原市で亡くなっているらしい。私の住む多摩地域のすぐ近くじゃないか。

そしてジェンダーについて。これは前述の大学生たちに聞かれたことがある。“タイってジェンダーに寛容な国なんですよね?”と。「The Eclipse」や「The Miracle of Teddy Bear」などに触れてきて、福冨先生の解説記事も読んだ私としてはどう答えるべきか非常に困ったものだった。“そうみたいだね”とか“そう言われているみたいだね”とだけ返していたが、福冨先生のお話を聞いて、自分の中で少し整理できた気がする。

タイ語には“性”という言葉が入っている性別の単語が3つある。いわく“女性”と“男性”と“第3の性”。これは主に男性から女性へのトランスジェンダーの方を指す場合が多い。公的なフォームでの選択肢は“男性”、“女性”、“それ以外”。これは性自認の話である。

性的指向について言えば“男性らしさ”や“女性らしさ”が規定されてきた一方で、個人が何をするかについては触れられてこなかった時期が長かった(=正しさの押し付けが比較的少なかった)という背景がある。そのためキリスト教的価値観から弾圧を受けることの多かった西欧諸国の人々がタイを訪れた際に“否定されていない=寛容である”と考えるようになり、そこから生まれたイメージのようだ。

他にも“第3の性”の人々に期待されがちな振る舞いについてや、観光プロモーションのやり方について、“微笑みの国タイ”が生まれた背景など、考えさせられるお話もたくさんして頂いた。

「女神の継承」と仏教と精霊信仰

衝撃的な話。この映画、実は男性的な仏教vs女性的な精霊信仰の構図を描いているのだそうだ。

少し前に京極夏彦の「狂骨の夢」を読んだ。その中で、仏教がいかに女性を軽視、排除してきた宗教であるかということが語られていた。物語は“しかしそうではなかった流派がある”というような流れで別の方向に進んでいくのですっかり忘れていたその記述を、福冨先生のお話で思い出した。

仏教は女性を排除してきた。タイの上座部仏教もしかりである。しかしタイにおける精霊信仰で力を持つのは、むしろ女性。「女神の継承」は、女性的な精霊信仰を男性的な仏教が抑え込もうとし、逆に食い尽くされるという構造の物語なのだそうだ。

この解説にはかなり衝撃を受けた。私はてっきり「女神の継承」は、あるキャラクターが終盤になって、ホラー映画によくいる“言うこと聞かないヤツ”になってやらかしたせいで、唐突にゾンビ系スプラッタホラーになってしまった謎映画だとばかり。ゾンビ映画が得意な韓国との共同製作だからかなと思っていた。

このようなとんでもない誤解をしてしまうので、背景知識を得るのは大事。これを踏まえてもう一度観てみたい... だいぶしっかり怖いので、天気が良くて明るく暖かい真っ昼間とかに。

タイ語は”平声”を練習すべし

タイ語の声調の覚え方の話も。日本人は自分がイントネーションをつけて話しているということを自覚していないため、平声を苦手に感じる人が多いという。

私も平声には苦い思い出がある。2月末に参加したFirstKhaotungのお渡し会が通訳さん不在イベントだったため、Google翻訳の音声入力を使って必死にフレーズを練習した。その時、一番難しく感じたのが平声だった。“また日本に来てね”に出てくる“maa”なんて、何度言っても“馬”にしかならない。自分では平坦にしているつもりなのにと困り果てた挙句、Google翻訳の聞き取り精度に疑いを抱きさえしたものだった。

福冨先生のアドバイスは、まずは自分の中で平声の基準をしっかり作ること。音符で理解できるのであればそれでもいい。とにかく“まっすぐ”を会得して、それを基準に他の声調を理解するのがいいと。

ちなみに2月末のお渡し会の時に参考にさせて頂いたのが「ピムとタイ語」さんのこの動画。そのピムさんが会場にいらしていたのを拝見して、勝手に感動してしまった。あの時はお世話になりました。本当にありがとうございました。

作品をどう伝えていくかということ

俳優の顔が良いからという理由で話題になって人気が出るのもいいけれど、それだけでは先がないのでは、というお話もあった。

私は1年数カ月前、誰に勧められるでもなく勝手にタイドラマを視聴して、勝手にハマった。だから”2getherがバズった時”のことは全く知らない。界隈の友達もいなければ、X(Twitter)にも馴染めなくてほぼ使っていないソロ活オタクなので、タイ沼の肌感覚のようなものには多分乏しい。けれど福冨先生をはじめとする多くの方々が“新規が減っている”と繰り返しおっしゃっているからには、実際減っているのだろう。確かに身の回りにも韓流オタクは多いけれど、タイオタクには会ったことがない。

では、タイドラマを初めとするタイカルチャーの(日本における)地位を確固たるものにするにはどうすればいいか。福冨先生によると、これからは作品の魅力をどう伝えていくかに重点を置いたプロモーションをするのが大切なのではないかということだった。つまり、ただ“タイのイケメン同士のBLケミストリー”みたいな売り方をするのではなく、その作品が社会的にどういう意味を持つものなのかということまで、きちんと伝えていくべきだということだ。

その考えを聞いて、私は密かに反省した。それはまさに私が放棄してきたことだから。私が公私共に“タイ俳優を推している”、”タイドラマにハマっている”と(BLや推しカプ云々の部分は相手によって適当にぼかしつつも)公言しているものだから、尋ねてくれる人もいる。オススメのタイドラマありますか、どんなところが好きなんですか、と。

それは本当に嬉しいことなのだけれど、その度に私は色々と諦めてきた。だって、私の一番好きなタイドラマは「The Eclipse」なのだ。

この作品、あらすじを説明するだけでも一苦労なのに、好きポイントが“単なる恋物語に留まらず、体制による圧力と弾圧、反体制運動をする人々の主張、特権を持つ者と持たざる者の不平等、人権の侵害と尊重、選択肢があった・なかったに関わらず、犯した罪には責任が付随するという残酷なまでの正しさなどを非常に繊細に描ききっているところ”だという徹底ぶり。

何をどう話せば良いのか分からないし、頑張って説明してみたところで“面倒なオタク”と思われるか、聞き流されるだけだろう。

そんな葛藤の末、結局いつも“タイ版の花男がかなり丁寧に作られていて面白いよ”だとか“ドロドロで過激なのが大丈夫なら去年バズったドラマがあるよ”と逃げてしまう。どちらの作品も良くできていて面白いし、推しも出ているし、大好きなのだけれど、それってやっぱりよくないなと反省した。

...というようなことを、講座の後に福冨先生にお話しさせて頂いた時「ふぁかおは暗いのがいいですよね」とコメントを頂いた。

そうなんです、福冨先生。FirstKhaotungは暗い作品でこそ美しく輝く子たちなんです。残酷な現実に打ちのめされて、やっと唯一の相手に出会えたのに、それでもなお傷つけ合って、やっと互いを理解して尊重し合えるようになって、自己を肯定できるようになって、最後の最後にようやく光が差し込んでくるような関係が似合うし、それを演じ切れる子たちなんです。そして、彼らが刺さってしまったら“やっと出会えた。私がずっと探していた推しは、この子たちだったんだ”くらいの感じになってしまうんです(※個人の見解です)。

とはいえ私はただのファンでしかない。X(Twitter)を使うことすらも敬遠し、世間に対してなんの影響力ももたない私に何ができる訳でもない。それでも「The Eclipse」の良さを知ってほしい。だから、まずは何かを誰かに伝えることを諦めないことから初めてみよう。

まとめ

今回の教養講座で初めて訪れた高輪図書館。“港区”、“白金”、“高輪”と、多摩地区民には攻撃力が高い地域すぎて若干身構えていたのだが、館長さんのウェルカムな雰囲気も含めて、とても居心地の良い空間だった。タイ関連書籍コーナーもありがたい。23区の民ではないので残念ながら本を借りて帰ることはできなかったが、タイ関連書籍をまとめた資料を頂けたので地域の図書館で活用していきたいと思う。

また講座についても、なかなか鋭い角度から見たタイのお話を聞くことができて、とても楽しく、知識欲の高まる幸せな時間だった。それだけでも十分すぎるくらいなのに、質問タイムを長めに取ってくださったり、終了後にはサインにまで応じてくださった福冨先生には感謝してもしきれない。本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い致します。

「The Miracle of Teddy Bear」の下巻にお願いした福冨先生のサイン。日付が仏暦になっているのが最高すぎる。

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