見出し画像

寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(1/9)

Ⅰ 「自由な人間」とはどのような人間か その1 

『自由の哲学』で、シュタイナーは自らの「一元論(自由の哲学)」を語るとともに、思想史上の様々な哲学(素朴実在論、批判的観念論、超越論的実在論など)を「一元論」の前段階に位置づけます。第一部では最終の第7章で、第二部では半ばの第10章で。
第11章以降の四つの章には、それぞれの章の主題とは別に、「「自由な人間」とはどのような人間か」という問いが通奏低音のように響いています。(すでに第9章で「自由の理念」を詳述した後から始まっています。)
私たちが到達(獲得・実現)するべき「自由な人間」は、「不自由な人間」と照らし合わされることで、そのイメージがはっきりとします。
(「不自由」という形容を本稿では「未自由」とします。それは、現在、自覚の有無にかかわらず、誰もが「自由」へ向かう途上にあるからです。また、『自由の哲学』の「自由」は、身体的不自由、環境的不自由の下にある人でも、目指し、実現することができるものだからです。)
『自由の哲学』を読み解くにあたって、この「自由な人間」のイメージをつかんでおくことが、第一部の抽象的な領域での格闘の際に力となってくれると思います。
本稿では、第11章と第12章にある「自由な人間」について紹介します。

1 自らが自らに与えた使命(目的)によって生きる人間 【11章】
自由な人間は、自らの使命を自らの思考の内にとり込んでおり、自らが自らに与えた使命(目的)によって生きる人間です。彼が自らに与える使命は、時として天が彼に与える使命(天命)をも超えます。
自らが自らに与えたものであり、彼は、自らの課題(使命)への道がどれほど不快や苦にまみれていても、嬉々としてそれに立ち向かっていきます。
これに対して、未自由な人間は、(外部・内部の必然性による)固定化された表象に従って行動する状態に置かれています。理念(真や善)よりも、感覚知覚からの要請(低次の快や得)を優先させられる状態にあります。未自由な人間の行動は、あらかじめ決まった動因によって規定されており、そこに人間本性による創造や発展を見出すことはできません。
また、未自由な人間は、動物の側にいる存在だとも言えます。なぜなら、両者ともにその本性の根底にある法則的な理念(本能)によって規定されているからです。
 
シュタイナーは、中世までの目的論的世界観(神的存在者による事物の成立)を退け、近代科学の機械論的自然観(自然法則による事物の成立)をひとまず承認すべきだとします。(この自然観はゲーテ的世界観(自然観)への止揚が必要です。)
自然においては、神によって被造物を創り出させる必要はなく、そこには自然法則(ゲーテの言う根源現象(原植物、〈典型〉など))を見いだすことが求められるのです。
しかし、私たち人間(の行為)を、このような自然と同様に見ることはできません。私たちは自然の法則、物質の必然性に沿って行為するだけの存在ではありません。私たちの行為は目的に沿ったものであり、合目的的であるのです。
ただし、その目的は、神が定めた目的ではなく、私たちが自らに与えた目的であり、個的な目的です。人間は、自分の人生に対して自ら目的を与え、意味づける存在なのです。
動物も、餌を求めたり、求愛行動をしたり、目的に応じた行動をとっているように見えますが、それらはあらかじめその動物の本性に内在している生得的な本能によるものです。このような動物の行動と人間のその都度の合目的的な行為とを同列に扱うべきではありません。合目的的であるためには、表象(概念)が必要となるのであり、それには人間だけが与ることができるからです。

 道徳的ファンタジーによって捉えた「理念(的直観)」を実現する人間
 【12章】

 道徳的ファンタジーによって捉えた「理念」を「動機」として行為する
理念を表象に変換する力をシュタイナーは「ファンタジー」とします。特に行為の動機となる、道徳的な理念を表象に変換する力を道徳的ファンタジーと呼びます。
「理念的直観」とは、意識に現れた理念(思考内容)のことです。(「直観」とは、理念(思考内容)が「意識」に現れる際の「形式」です。)
自由な人間は、道徳的ファンタジーによって捉えた「理念」を表象にかえ(それを動機とし)て、行為するのです。(シュタイナーは道徳的理念を捉える力を特に「道徳的理念獲得力」として、この行程を説明しています。)

自由とは、行為の根底にある表象(行動因)を道徳的ファンタジーによって自分自身から決めうることである(1:203)

自由な人間は、その表象(行動因/動機)を道徳実現技術によって現象界で具体的に実現します。
自由な人間は、その都度の状況に合わせて動機を生み出し、意志行為を行うのです。彼は、社会道徳的(倫理的)に創造的で生産的な存在だと言えます。
一方、未自由な人間は、道徳的ファンタジー等の力をもたず、道徳的理念(理念的直観)を行為に移すことができません。彼は、動機をこれまでに見たり聞いたりしてきた内容(過去の経験)や社会的規範に基づいた表象から選びとります。
未自由な人の動機(とそのもとになる表象)は外的にあらかじめ決定されており、彼は倫理的には何も生み出しません。彼は社会道徳的には生産的な存在にはなりえません。

 倫理的個体主義
社会道徳的なもの、倫理的なものは、個体(個人/人間的個)においてのみ捉えられます。その個体の理念的部分において行為の根拠が捉えられたとき、その行為は自由となるのです。

行為の根拠が私の個的存在の理念的部分に由来するとき、その行為は自由な行為と感じられる(1:163)

 〈倫理的(なもの)〉は、〈個体(の理念的部分)〉においてのみ捉えられ、実現するという考えを、シュタイナーは倫理的個体主義と名づけます。倫理的個体主義は、シュタイナーの「一元論」であり、「自由の哲学」そのものです。

シュタイナーは、「進化の過程を正しくたどるなら、人間の精神的な祖先を探さざるを得なくなる」と言います。また、他方では、「倫理的個体主義」は、「進化論」に継続する「精神化された進化論」だと言います。
仮に、単純に「動物⇒(未自由な)人間⇒自由な人間」という進化の流れを考えるとするなら、次のようなことも言えるでしょう。
「動物⇒(未自由な)人間」の部分に関わるのが「進化論」であり、「(未自由な)人間⇒自由な人間」の部分に関わるのが、「精神化された進化論」=「倫理的個体主義(自由の哲学)」である、と。そして、前者においては「身体的直立」が主要課題であり、後者においては「精神的直立」が主要課題となるのだ、と。(1919年の補遺では、自由は「正しく身を起こす力」(森章吾訳)だとされます。)
(この意味では、シュタイナーの言う「自由な人間」は、ニーチェの「超人」に通じるものだと言えるかもしれません。ニーチェは「超人」への道を、畜群から離れること、末人にならないこと、としか示していません。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?