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廃園 7(最終話)

 夢が覚めると、朝になっていた。
 時計を捨ててしまったので何時だか分からない。とりあえず出社の準備をして、今日が日曜日だということに気が付いた。
 腑抜けたまま、食卓の椅子に座っている。
 眼前には冷めたコーヒー……いくら待とうとも、彼は現れなかった。
 化け物が正体を知られると滅されてしまうというのと、理論は同じだろうか。正体を看破され、訪れるものはいない。
 玄関のベルが鳴った。
 何もかも面倒で、放っておく。
 もう一度鳴る。もう一度、もう一度……あまりにしつこいので、仕方なく腰を上げた。
 玄関の扉を開けると、思いがけず彼が立っていた。
 ……彼が?
 私は困惑する。
 どちらの彼だろう? もう死んでしまっているのと、まだ生きているのと。
「久しぶりだな」
 彼は、言った。
 おそらく生きている方だった。
 私が目をそらさずとも消えないほう、眉間に刻まれた皴がますます深く影を落とす……それは、生きている彼だった。
「お前、死んだんじゃなかったのか」
「……はあ? お前、何言ってんだ」
 私の返事も待たず、彼は靴を脱ぎ、家に入る。
 うわっお前掃除くらいしろよ、凄い埃じゃねぇか、生きている人間らしい台詞を残し、さっさと廊下を行ってしまう。
 彼の後に従いながら、私は記憶の底に眠る心中現場を思い起こす。
 寝室に倒れた二人、無理心中……血まみれの彼を抱き上げて、冷ややかな瞼を下ろしたあの日の甘美……胸中を支配した、あの泣きたくなるような安堵は、ならば幻だったのだろうか……
 リビングに行くと、すでに彼はソファに座っている。
 いつも彼が訪れるときはそこに座を占めていた、いわば彼の指定席。
 私はいまだ生きながらえる彼を眺め、はなはだ奇妙な気分に陥った。
「……しばらく連絡できんくて悪かったな」
 彼は横柄にそんなことを言って、向かいの席を私に勧めた。
 久しぶりの彼は私の記憶以上に彼でしかなく、私はなかば呆然とソファに腰を下ろす。
 彼が死んでいた間も、彼は彼としてこの世に存続していたのだ……と、その事実をまざまざと眼前につきつけられる。いや、そもそも死んでいなかったのか。
「……昨日、佐代子さんに会ったよ」
「……知ってる。佐代子から聞いたんだよ、お前のこと。電話があってさ、なんか心配だから連絡とってみろって……お前、佐代子とも連絡取ってなかったんだな」
「電話?」
「そう。俺たち今、別居してるからな……前、言ったよな?」
「聞いてない」
「そうか? 言ったよ」
「いや、聞いてない……たぶん」
「お前、本当に大丈夫か? なんかちょっとおかしいぞ、現実感ないっていうか……」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろ」
「お前こそ、大丈夫なのか、色々……なんか、大変だったろ」
 今やもう現実的な問題は何一つ思い出すことができず、ただ何かと騒がしかった彼の身辺だけが記憶にあった。
 彼は眉間にしわを寄せ、それからお前のほうがどう考えても心配だろうが、焦れたようにつぶやいた。
「お前、ちゃんと食ってるのか」
「食ってるよ」
 突然母親のようなことを言い出す彼が信じられず、私は思わず噴き出した。
 この男は何を言うのだろう、早く帰ってしまえばいいのに、ぼんやりとそんなことを考えながら、私は白薔薇の君を思い出していた。
「彼女、老けたな」
 唐突な言葉に彼は驚いたようだったが、そうだな、と自嘲気味に呟いた。
「苦労かけたからな、俺も、お前も」
「……金村」
「何だよ」
「早く、帰ってくれないか」
 私の言葉に少々鼻白み、彼は長い溜息をついた。
「……分かった。もう帰る」
 彼を玄関まで見送って、リビングに戻り、ソファに腰を下ろすともういけなかった。
 体中の力が抜け、全身から滲みだし、残る私の存在はただひたすらに残りかすへとなってゆく。
 水を絞り出した生ごみ、その救いようのない一塊となって、私はただひたすらに眠りの中へ落ちてゆく。
 夢中には、彼がいる。
 この世にはもういない彼、幽界の住人。
 この世にはいないからこそもう誰の所有するところでもなく、ただ自由に隙間からこの世へ零れ落ち、私を監視し、笑い、時折何かを囁いて去ってゆく……私の愛しい、彼がいる。
 重苦しい夢の底で、私は彼に会いたかった。無理心中で死んだ彼。血だまりから救い起し、私が瞼を閉じてやった……私は、彼に会いたかった。

 夢の底は、ぬめつく血で濡れていた。

 扉を開ければ、そこは血の海。
 あの日あの時と寸分たがわぬ心中現場に私は再び迷い込み、胸で躍る動悸が恐怖のためか愉悦のためかもはや分からず、私は彼を見つける。
 血だまりにうつぶせに倒れた彼。
 冷たくなった彼の身体を抱き起し、私は素晴らしい安堵に全身浸り、それから……
「金村」
 名を呼ぶ。
 あの時の記憶と少し違っていて、彼は実はまだ生きている。
 急速に熱を失ってゆく身体は冷たいけれど、まだ緩慢に血が巡っており、瞼は痛みに堪えかすかに震える……彼が、瞼を開く。
「……佐代子、」
 ふと彼女の名を呼んで、再び、喉を詰まらせる。
 苦しそうに、吐息。
 今救急車を呼べば助かるのかもしれない、私は思う。
 けれど呼ばない。
 いと小さき柔らかなものとなって私の腕で息絶えてゆく彼、私は彼を手放したくなかった。
 もし今一度手放せば、彼は再び彼女のもとへと舞い戻るだろう。今までの過ちを残さず吐露し、謝罪し、ひざを折り彼女に許しを乞うだろう。そんなもの、私は見たくない。
「……金村」
 彼の名を呼びながら、私は両腕に力を込めた。
 血の海に沈めて、彼の首を絞める。
 もう二度とその瞼が開かぬように。もう二度と彼女の名が呼べぬように。私は、渾身の力を込めた。
 やがて彼はこと切れる。
 いつの間にか私は彼に馬乗りになっている。冷えてゆく彼の身体を眼下に、手のひらに残るやわらかな首の感触に打ち震えて。
『……気持ち悪い』
 誰かが、舌打ちをした。
 顔を上げれば、ベッドの上で息絶えていたはずの彼女が首をもたげている。奇妙にねじれた角度のまま、顔をこちらに向け、見開いた瞳で私をねめつける。
『……気持ち悪い』
 ぞっと、凍てつくような声音だった。
 じわじわと、血だまりについた膝から血は私の肉に染みてゆき、徐々に体が重くなってゆく……気持ち悪い、何よりも刺さる罵倒の言葉を残し、心中の部屋は遠のいてゆく。
 みるみる重くなってゆく身体に引かれ、私は地の底までめり込んでゆく……

 目が覚めると、涙が頬を伝っている。
 私はもう何もかも気が付いている。
 私が復讐しようとしていたのは誰なのか。
 何を達すればその復讐は遂げられるのか。
 明白ではないか。
 私は包丁を取りに台所へ行くのだが、どうしたことか見当たらない。
 それならば果物ナイフでもと思うのだがそれもやはり見つからない。
 カッターも剃刀もない。
 家の刃物という刃物がどこかへ行ってしまった。私は疲れ果てて、再びソファに横になった。
『……樋越』
 頭上から声が降ってきて、見上げると彼がいる。
 あの世とこの世の境目の住人、幽界に座する彼……彼は私の妄想ではなかったのか。そう思うのだが、私には彼を否定する気力さえ残っていない。
「……金村、包丁を知らないか」
『……さあ。知らんなぁ』
 くつくつと笑うその顔が憎らしい。
 もしかすると彼が隠してしまったのかもしれない。
 家じゅうの刃物という刃物、そんなものを集めて、さあ私は何をする気だったのか……疲労に思考は混濁する。
 私は目を瞑って、これからも延々と続きそうな余生に寒気を覚えた。


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