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廃園 6(全7話)

「樋越さん、少しおかしくないですか」
 隣席の同僚が話している。私に話しかけているのだろうか。分からない。
 私は窓際に腰かけている彼と話しているので、同僚のほうに注意が向けられないのだ。少しでも目をそらせると、彼は幻のように消えてしまう。
「独り言もそうですけど……あることないこと喋るっていうか……」
 同僚の愚痴をどうやら彼も聞いているらしく、ふんふんと頷き、頷きながらも苦笑を浮かべている。自分のことが話題になっていることに薄々気が付いているようだ。私は彼を眺めながら、同僚の声に耳を澄ませている。
「……親友が死んだとか、あれ、本当なんですか?」
 ひそめられた声音は皮肉にもよりいっそう鼓膜の中で際立った。
 微笑する彼。
 血まみれで横たわる彼の瞼を閉ざしたのはこの私なのだ。彼の死は疑うべくもない……私は思う。
 だが、本当に?
 私には彼の葬式の記憶がない。
 素人が無理心中の現場に入れるものか?
 ……ああ、思考は堂々巡り。いつの間にか彼の姿は消えている。
 私は席を立ち、早退を請い、早々に職場を後にする。電車を乗り継いで、彼と彼女の家に向かう。
 枯れた白薔薇。死した親友。
 もはや二度と来ることはないだろう、そう心に決めていたはずの家の玄関に私は立つ。
 インターホンを押した。
 軽やかな音が鳴り響き、虚空に落ちる。
 もはや誰も住んでいないのだから応答などあるまい。私の予想はいとも容易く裏切られる。
「はーい」
 明るい声音とともに、廊下を駆けてくる足音。
 あれは、白薔薇の声ではなかろうか?
 枯れた白薔薇ではない、まだ瑞々しく生気を含んだ、朝露に輝ける白薔薇……私は途端に怖くなり、玄関ポーチから一歩退いた。
 ああ、駄目だ、出てくる……たたきに身を下ろす気配があり、華奢な手が鍵に伸ばされる……眼裏にひらめく幻影に私は悲鳴を上げ、蹲った。
「……大丈夫ですか?」
 差し伸べられる手に恐る恐る顔を上げる……白薔薇の君では、ない。
 見たこともない若い主婦がそこにはおり、不審そうな眼差しで私の全身を眺めていた。
「……すみません、間違えました」
 私はほうほうの体でその家を去り、朦朧と街路を歩んだ。
 先ほど身を染めた恐怖がいまもって去らない。腕に毛羽立つ鳥肌を撫でさすりながら、私は帰路を失った迷い猫のように途方に暮れていた。
 この時間から職場に戻るのはどうも中途半端なのだが、家に帰るのも気が引けた。
 家に帰りつくころにはおそらく黄昏が部屋を焼くだろう。そのきな臭い赤銅の陽の色に、きっと彼は現れる。
 彼にこのことを何と説明したらよいのか、私には分からない。
 ただの笑い話にしてしまえばよいのかも知れず、もしかすると彼はそんな話になど一切の興味を示さないかもしれないではないか。
 しかし、もし彼の感情の琴線に触れたらどうする? お前、あんな同僚の言うことを信じたのか? そう落胆して、肩を落とされたらどうなる? 
 消沈した彼が二度と私の前に姿を現さなくなったら……考えただけで、私は恐ろしい。

 ゆく当てもなく路地をさ迷い歩いているうち、何とはなしに知っている道に出た。
 何故、私はこの道を知っているのだろう。自分でも分からないが、うっすらと記憶の澱の底から這いあがってくる風景を辿ってゆくとやがてそこにゆきついた。
 ここらへんでは珍しいような空き地だ。
 一辺を路に、あとの三辺を小さな家に取り囲まれて、ならば空き地は大地が呼吸するための風穴なのか。私は吸い込まれるようにその空き地に足を踏み入れ、そして気づいた。
 空き地の隣には一軒の小さなアパートが建っている。
 その薄暗い玄関先に、表札がひとつぶら下がっている……金村、とその表札が読めるのだ。
 私は磁石に引き付けられる憐れな折れ釘のようにふらふらとそこに寄り、それからまじまじと表札を見つめた。その隣に座する、堅く閉じられた鉄扉を。
 ぶるぶると体の奥底からわき出でてくる震えに、私は抗いようもなくさらされる。
 これは一体何だろう。
 ただ、名字が同じというだけの表札。
 それを目にするだけで私はこうまで動揺するのか。
 ……何故?
 震える膝を抑えて、一歩、下がる。
 早くこの場所を去りたかった。家……そうだ家だ、黄昏に焼かれて喘ぐ家……彼の待つ私の家に帰らねばならない。
「……樋越くん?」
 ふいに後ろから声をかけられた。
 私は全身を震わせて、伸びあがった。
 次の瞬間が永遠に来なければいい、そう願いながら、ゆっくりと、ひどくゆっくりと、私は振り返った。
 そこには、彼女がいた。
 枯れた白薔薇。
 往年の輝きを失ってしまった憐れなひと。
「……佐代子さ、」
 みなまで言葉は出てこなかった。
 声音は途中で途切れ、ひゅうっと喉の鳴る音に呑まれる。
 しとど湧き上がる汗に瞼が爛れ、眼が腐り落ち、ああ、何も見えなくなってしまえばいい。私の愛すべき静寂の日々は、死んだ。
「どうしたの? 珍しいね、最近めっきり来てくれなかったから……ねぇ、大丈夫?」
 彼女の言葉を待たず、私はその横をすり抜けた。
 呼びかける声音にも振り返らず、まっすぐ空き地を突っ切る。そのまま道に出て、家を目指した。

 家には、当然のように彼がいた。
 玄関で靴を脱ぐ私の背後に彼はいて、私の動揺になど露とも気づかず、じりじりと黄昏の赤に焼けている。
『今日はやけに不機嫌だな』
 彼の言葉に、私は何と返したらよいか分からない。
 死んだと思っていた彼女が生きていた。
 おそらく彼も生きているに違いない。
 ならば背後の、この男は何なのだ。この世とあの世の狭間からいつも私を覗き込む、長年の友であるはずのこの男……
「お前、誰なんだよ」
 私の言葉に彼はすべてを察したらしく、ふと笑った。
 現実の汚濁をそのままあの世に引きずっていったような疲弊の微笑……夢中にたびたび現れた彼の、あの晴れがましい笑顔とは一線を画す笑顔……男は言った。
『さあ。誰なんだろうな』
 ゆっくりと私の背後から近づいて、背にそそける私の鳥肌を服の上からそっとなぞった。
『お前が一番知ってるだろうよ』
 その指先は、窓の結露のようにびっしょりと湿り凍てついている。
「消えろよ」
 私は言った。
 振り返ると、もう彼の姿はどこにもなかった。
 黄昏が夜となり、夜が深夜となる。
 けれどそれ以上に時は進まない。遅々として滞る時計の針が憎らしく、電池を抜いて、捨ててしまった。
 明けない夜はないなど、陳腐な言葉が胸を去来し、私は厳かに虚言に唾を吐く。
 ……いつの間にか眠っていた。
 夢の中ではやはり彼が微笑んでいる。
 晴れがましい笑顔。葬式を終えた彼。はだしの足で私の褥を踏み、別れたよ、と言う。
 お前が死んだ夢を見たよ、現実の彼に告げれば、お前の願望じゃねぇの、心にもないことを言われた。
 願望などであるものか。
 彼の死後、気が狂うほどその面影ばかりを夢に見るというのに。願望だと言うならば……
「誰と、別れたんだよ」
 私の言葉に、やはり夢中の彼は答えない。

(つづく)


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