【小説】映るすべてのもの #4
7月。昼からだいぶすぎたというのに太陽の熱視線は天と地を無視しながら、おかまいなしに身体につよくささる。
ペットボトルを手にゆっくりあるきながら、ときおり水を口にふくむ。瑠衣は里穂のマンションにむかった。スポーツタオルを首にうだる川沿いを30分ほどあるくと、あいかわらず威圧感のあるマンションまえにたどりつく。インターホンで番号と呼び出しボタンをおし「加藤です」と瑠衣はいった。
「あ、はい、ちょっとまってね」オートロックのドアがひらく。
もうこういう時間もなんどめになるのか。まるで欠席などしていないかのように里穂は瑠衣を出むかえ、欠席などしていないかのように瑠衣は里穂とおだやかなときをすごし家にかえった。
高校生って結局どうすごすのがいいのか。中学で持ちこめなかったスマホが持ちこめるようになり、それも里穂のイメージチェンジと欠席がふえた理由にもからんでいるようだった。
あかるく冗談めかしてはいるけれど、スクールカーストたかめな女子に目をつけられやすい里穂なりに抜け道をさがしていることは言葉のはしばしからさっせられるものがあった。
たしかにさわがしい彼女らの習性としてめだつ美人と仲のいいふりをしたがる場面はよく見かけるような気がした。里穂にはさぞかし居心地のわるい瞬間だろう。
せまい場所に閉じこめられた生きものは基準のあやふやな強弱の世界にほうりこまれてしまう。
だからみんな自意識が過剰になるし一生懸命見えない鎧をつける。それは虚栄だったり卑屈という言葉にもなりそうだ。
つよそうに見せたりよわそうに見せたりと、だれも命令されていないはずなのになぜか「じぶんはここの住人です」とみながそろって周囲にわかりやすく演じている。
安心したいがために安心をこわされないように息がつまるとはどういうことだとも思うが、平和や争いをほどよくふくむということが俗にいう「平和」なのか。「争い」や「不幸」で思いうかべるものはみな似たりよったりなのに「平和」や「しあわせ」になると、とたんにそれぞれのイメージはぼやけてしまう。
そういえば小学生のころは「足のはやい子」が人気ものだった。いつか母みゆきにきいたときもにたような話だったおぼえがある。たぶんその前も前もきっとにたようなものなのだろう。
運動会の日に雨乞いをしたくなる瑠衣とは違い「足のはやい子」は自動的にまわりもそう見たし本人も損得勘定のない光をはなっていた。
あれこそどんなブームにも左右されない古代の狩猟の血がそうさせているのではないか。人間はほんとうにサルから進化したのか、しているのだろうか。ほんとうはまだサルで「亜種人間」というカテゴリになっているだけかもしれないうっきっきー。
あ、バナナたべよう。
それでも人間として生きたいな、さいごまで人間として死にたい。そのためにはこのながい経験も必要なのか、瑠衣は頭ががんがんしてきた。
小学校の「足のはやい子」と中学高校のスクールカーストはにてるようでちがう。一見、美人、不美人の順位のようにも見えないこともないが、スクールカーストたかいひくいにかぎらず見た目のいい子はどちらにもいる。
あえていうなら方向はどうあれ見た目にがんばっているひとたちが集ってはいるが、あの順位は脆い脆い自尊心みたいなものでつくられている側面がおおきいのではないか。
たかめのグループなほど、ひょんなことではじきだされてしまった一瞬でその子のまとっている空気が一気にしぼむ。
それはひくいと自負しているひとたちのそれより派手で苦痛そうだ。
高校に持ちこまれた「自撮り」もひとに見せるコレクションだ。鎧であり太古からつづくのろい。
ひとにみとめられないと自分をうけいれることができないのろいだ。
瑠衣は写真がすきではなかった。ずっとコンプレックスだったうす茶色の髪や瞳は中学からいきなりうらやましがられるようになったが「外国人みたい」とからかわれて泣きそうになっていたとおい記憶もきえずにある。
彫りのふかいハーフ顔ではない。ちょっとしもぶくれでよくある和風な瑠衣の顔だち、中肉中背で筋肉もあまりなく、どことなくぼんやりした自分像は写真をとってもいつもそのままで映る。
わたしはずっとかわらないのに、からかわれたりうらやましがったり、つくづく勝手もんだ。わたしもみんなもだれかがつくった、たつまきのような価値観やブームにまどわされすぎに思う。「郷にはいれば郷にしたがえ」どこからが郷なのか。そこにはどれだけの余白があるの? そして安全に生きたかったらこうしなさいいじめられたくなかったらこうしなさいという意味だろうけどやっぱり安心安全のためにその場しのぎでごまかされたものが遅延性の毒のようにじょじょにきいてくる。
最近ではわたしみたいなひとに向けられたような「常識をうちやぶれ!」いい大人までが真にうけたりもしている。わざわざ「うちやぶる」を意識してる時点で失格!減点!赤点!放課後補習だ。
ピンポンダッシュをしたじぶんに高揚している小学生じゃないんだから。
「足のはやい子」小学校のこれはたぶん本能的に優秀な遺伝子をかぎとっているのだとほんきで思う。遺伝子的につよいものをもとめるのなら、わたしのうす茶色の髪や瞳は日本では劣性であるしるしのようなものだ。
「加藤さんの髪って茶色でいいな」なのに今日、早瀬さんにまでいわれるとは思わなかった。
早瀬さんの真っ黒な髪はわたしにはどうがんばっても真似できないものだ。中学になってすぐドラッグストアでかったヘアカラーで黒染めをためしてみたらすぐに頭皮がまっかになってしばらくいたみがのこり、こりてしまった。
思春期の学生が文学っぽいものに惹かれやすい理由に病みや儚さを美にとらえすぎてしまうきらいがある。体力気力があるほど、それにあこがれるものかもしれない。
体力はときになやみも加速させるし爆発もする。だけどわかりやすく荒れてるひともほんのすこしうらやましい。
テニス部にいたころの早瀬さんはとてもきらきらしていた。これも
太陽がまぶしすぎるわたしにはむりなことだ。
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