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結果、"ちっちゃい私"が生きていればいい

私の大切なもの
私のまわりの大切な人だったりモノだったり食事だったり芸術だったりは、確かに私にとってなくてはならない大切なものです。

ただあえて大切なものを根本から考えたとき、皆さんが読んでいてちょっと理解しづらいな…と感じるかもしれない"ちっちゃい私"について、ここでは書いていこうかと思います。

note第6回のテーマは、【ちょっと一息】編"ちっちゃい私"についてです。

"ちっちゃい私"とは

私が大切にしているものは、頭の中の"ちっちゃい私"です。

うれしい楽しいなどポジティブな言い回しで私たちは次のような表現を使います。

  • 心が動く

  • 心が踊る

心は実際、動かないし踊りません。
ただ、私の頭の中では鮮明なイメージとして”ちっちゃい私”が動いたり踊ったりするわけです。

ずばり"ちっちゃい私"の正体は、自分の「嬉しい!」の象徴。
大切な人と同じ時間を過ごしているときや、美味しいものを食べているとき、芸術に触れているとき、たちまち頭の中に出現するのが"ちっちゃい私"です。

つまり至福の時間・Happyを感じるとき、私のかわりに飛び跳ねて喜んで踊り出してくれる頭の中の細胞を、"ちっちゃい私"と呼んでいます。

幼い頃、人形やぬいぐるに対しいかにも生きているもののように話しかけたそれと同じ類です。
(どいことやー、と頭をひねる方も当然いるかもしれません…。すみません。)

私はどうにかこうにかいつまでも"ちっちゃい私"を殺さないでいたい、そう感じながら毎日を過ごしています。

"ちっちゃい私"はいつでもどこへでも

"ちっちゃい私"は、踊るのが基本。
例えば、音楽を聴いて散歩をしているときはたいがい踊り出すので、実際の私も一緒に踊っているような気持ちになります。

散歩のほか芸術に触れたときも同様です。素晴らしい作品に出会い、心の底から感動した瞬間にも"ちっちゃい私"は踊り出します。

私たちは人生のうち、忘れたくない至福の瞬間を何度経験できるかわかりません。
わかりませんが、宝箱にしまっておきたくなるような瞬間に"ちっちゃい私"は生きています。

それは例えば散歩のように、特別ななにかでなくても良いのです。何気ない毎日の中に、光る瞬間が隠れていると私は考えます。

結果、"ちっちゃい私"が生きていればいい

真っ直ぐに生きようとすれば、必ず敵は現れます。生きていれば必ずです。
そして、敵の呪縛は正直、手強い。そのあとの人生に平気で影響を及ぼして、一生治らない傷を残すこともあります。

そういった積み重ねは、真っ直ぐだった人を卑屈にさせるかもしれません。
卑屈という言葉は、すこし攻撃的な響きがありますよね。
卑屈は人に嫌われてさらに卑屈を生む原因になり、深い深い闇の入り口に立たされることだって、充分に有り得るでしょう。

ただ、身体中の細胞が喜び輝き出すような瞬間・好きなものがある場合。たとえ卑屈の闇が襲ってきても、元の場所に戻れると私は考えています。

よって、どんなことが起きても結果"ちっちゃい私"が生きていればいいわけです。

踊り出す瞬間を大切に

私の場合"ちっちゃい私"が踊り出す瞬間の1つに、書くことがあります。

それは例えば朝起きてすぐ、バスに揺られているとき、コーヒーを飲んでいるとき。あれ書きたい!これも書こうと考えている瞬間です。いろんな瞬間に発想がポンと転がり、"ちっちゃい私"が勢いよく現れます

自分には書くことがあり、書く手段としてnoteがあり、人の感性に触れられる場がある。それだけで"ちっちゃい私"は生きていける気がするのです。

というわけで、"ちっちゃい私"が死なないようにだけ一生懸命になりながら今日も生きていこうと思います。

終わりに

以上、note第6回はコーヒーブレイクとして、頭の中の"ちっちゃい私"について紹介しました。ここまでお読みいただきありがとうございます。

ちょっと不思議な話でしたが、皆さんいかがでしたか?笑
少しでも共感していただけたら嬉しいです。

さて、次回note第7回は…なにも決めていませんが、またなにか調べモノでもしようかなと思考しております。
目に止まったら、箸休め程度に読んでいただけたら幸いです。

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