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数珠を忘れた墓参り


 9月2日、3日と先祖代々住んでいた富山県に墓参りに行ったのだけれど、祖母のおっちょこちょいで墓参りに必須のツール”数珠”を忘れてしまいました。墓参りの目的で数珠を忘れては本末転倒ではないか!…と思ったけれど宗教の在り方、信仰の在り方を考えるとあながち問題ではないと言えるのかもしれない。
 作法やルールは確かに理にかなったものではあるけれど、「作法を絶対に守らないとダメ、罰が当たる」とかいってルールに拘泥する考えは、「宗派や教団を信仰している」のであって「教えを信仰していない」と思えてしまいます。(古今東西この問題はある。ex「安息日論争」)宗教に触れるうえで先ず考えるべきは「教え」であることに誰も異論はないはずです。

「では、気持ちさえあれば、わざわざ遠くに墓参りに行かなくてもいいのではないか」論への応答(西本願寺教団の正式見解とは異なる)


 確かに、気持ちさえあれば墓参りに行かなくてもいいのかもしれません。しかし、墓参りというものがなかったとすれば、浄土のことを考えることも、先祖のことを考えることもないでしょう。換言すると、「墓参り」というものが存在するから「気持ちが生まれる」のであって、存在しなければ日常で思い浮かべることはきっとないでしょう。
 そこで、墓参りは「浄土や先祖のことを想起する手がかり」的に位置付けられ、墓は「此岸の私たちが浄土や先祖の恩を想起する場、浄土との境界」としての役割があるのだと考えられます。加えて、仏前では地位や年齢といった違いに拘わらず誰もが平等なので、一堂に会して墓参りをするという行動には人間は元来平等であるということを意識させる役割もあるのではないかとも思います。以上、勝手な宗教観でした。(これくらいの日本的な緩さがいいのかもしれぬ)





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