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日出処の天子

現在の日本は、世界最大の仏教国とされている。その日本の仏教の基礎を築いたのが、聖徳太子しょうとくたいしだ。
浄土真宗の開祖親鸞聖人しんらんしょうにんは、「和国の教主聖徳皇しょうとくおう 広大恩徳謝しがたし」と、聖徳太子を日本のお釈迦様だとまで褒め称えている。

574年2月7日、聖徳太子の母・穴穂部間人あなほべのはしひと皇后が馬小屋の前を歩いていたとき、急に産気づかれ、聖徳太子が誕生する。
そのため聖徳太子は、「厩戸皇子うまやとのおうじ」ともいわれる。

聖徳太子の父は天皇で始めて仏教に帰依きえした用明天皇ようめいてんのうであり、祖父は仏教が日本に伝えられたとき在位した欽明天皇きんめいてんのうになる。
聖徳太子は生まれながらに、仏教と共に在ったと言っていい。

母に抱かれた2歳の聖徳太子は、「南無仏」と2度となえて合掌がっしょうし、周りの人々は唖然あぜんと息を呑んだそうだ。
それはお釈迦様がお亡くなりになった、2月15日のことだったからである。
聖徳太子の生涯を暗示するエピソードとされている。

7歳のとき百済くだらから数百巻のおきょうやその注釈が届き、仏教の勉強をはじめる。1日に1巻から2巻のハイスピードで読破していかれたと言われる。

聖徳太子が11歳になった3月頃、伝染病が流行りたくさんの民が死んだ。
仏教を快く思っていなかった豪族の物部氏もののべしは、
「この流行り病は、蘇我氏そがしが外国の神である仏教を興隆こうりゅうしたたたりである」
と朝廷に抗議し、天皇は仏法を中止することにした。

勢いづいた物部氏もののべしは寺院へ攻め込んで焼き払い、仏像を海に捨てた。さらに蘇我氏のもとへ攻め込み、尼僧にそうを捕らえ全裸にしたうえ群衆の目前で鞭打ち、仏教を弾圧する暴虐さを人々に知らしめる。

これを耳にした聖徳太子は物部氏もののべしを出頭させ、
「天皇のお言葉をたてに自分のやりたいことをやるのは、臣下の道に背くことゆえただちに改めよ」
と戒めている。

父・用明天皇ようめいてんのうは41歳で崩御ほうぎょ。このとき聖徳太子はわずか14歳だった。
次の天皇を誰にするか、本来であれば有力な豪族が話し合って決めることになっている。
用明天皇ようめいてんのうが仏教に帰依きえしたことで、豪族間の対立は激しさを増した。
仏教反対派の物部氏もののべしは軍勢を率いて、仏教推進派の蘇我氏に攻撃をかける。

14歳の聖徳太子はこのとき初陣を飾り、物部氏もののべしの軍をことごとく打ち破る。
兵力も武器も劣勢となった相手方の大将・物部守屋もののべ の もりやは、自ら木に登り弓矢で聖徳太子を狙うものの、逆に弓で射貫かれ戦死してしまう。
大将を失った物部氏もののべしは全軍が総崩れとなり、ついには滅亡してしまった。

物部氏もののべしが滅亡すると用明天皇の弟・崇峻天皇すしゅんてんのうが即位し、蘇我氏は百済から僧侶や技術者を招き、日本初の本格的な寺院「飛鳥寺あすかでら法興寺ほうこうじ)」を建立こんりゅうし、仏教興隆こうりゅうを推進するようになる。

数年後、崇峻天皇すしゅんてんのう(日本史の中で臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇)に代わり、用明天皇の妹の推古天皇すいこてんのうが即位する。
このとき聖徳太子は20歳。叔母である推古天皇すいこてんのう摂政せっしょう(君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務をること)となった。

聖徳太子21歳のとき「三宝興隆の詔さんぽうこうりゅうのみことのり」が出される。
三宝とは仏(釈迦)・法(釈迦の説いた教義)・僧(釈迦の教えを説き、それを実践する人)を意味し、仏教そのものを表す。

推古天皇すいこてんのうによって三宝興隆の詔が発せられたのは、仏教への造詣ぞうけいが深い厩戸皇子うまやとのおうじ(聖徳太子)の影響によるものだった。厩戸皇子うまやとのおうじは仏教(三宝)が盛んになり栄えることが、国を統一する最も良い方法と考えていた。
三宝を生きとし生けるもののすべてのり所とし、このみことのりを発することで仏教を基礎とした理想国家の建設に邁進まいしんする。

次に聖徳太子は、冠位十二階かんいじゅうにかいという制度を制定する。
冠位十二階かんいじゅうにかいとは、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。
儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二とした。

それまでの日本では、姓(世襲)によって生まれつき身分が決まっていた。
この制度は役人(人材)を姓ではなく、個人の能力と徳に応じて評価するために設けられた制度であり、功績に応じて昇進することができるようにしたわけだ。
冠位十二階かんいじゅうにかいは旧来の世襲制度の否定であり、天皇を頂点とする日本独自の民主主義の始まりだったと言っていい。

これを見れば現代の世襲議員など、明らかに聖徳太子の時代から逆行・衰退しているではないか。
なるほど。
今の世を過去の歴史から学ぶのも、時として意義あることかもしれない。
(次回に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす

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