見出し画像

壊れかけのメディア

新聞の購読を止めて4年になる。ただしそれ以前でも、朝刊をポストから抜いて居間に置くまではするものの、紙面を開かずそのまま古紙になることがほとんどだった。

ネットが普及する以前なら、情報はテレビか新聞(あとは車で移動中のラジオ)に限られている。

当時は点けっぱなしのブラウン管から流れてくるニュースを視ては、世の中の動きを理解した気分でいた。前世紀、テレビは僕にとって空気に近い存在であり、居間にいる間は絶えず賑やかな(今となれば騒々しいとしか感じない)音と映像にあふれていた。
その時代にあって、新聞で欠かさず目にするのは番組欄のみだった。

一面・二面はテレビのニュースですでに知っている(古い)情報だし、見出しとリード(前文)をのぞいては、起きた出来事を追認するだけだ。
それもそのはずで、テレビ局と新聞社は、提携会社や協力会社という関係にある。各テレビ局のニュース系列と全国紙との結びつきは、きわめて強い。

例えば、日本テレビ系列による「NNN」は、開局当時より読売新聞との関係が強く、日本テレビと読売テレビは読売新聞グループ会社になっている。このNNNのネットワークには、北海道から鹿児島まで、全国30局が加盟しているといった具合だ。

新聞社が放送業に資本参加した結果、特定資本(つまり特定企業など)が多数のメディアを傘下にして影響を及ぼすことを、クロスオーナーシップ(相互所有)という。
自由主義国では法律によって、このクロスオーナーシップには規制がかけられている。言論の自由多様性(メディアがいの一番に主張する言葉)を保障するためには、より多くの者がメディア事業に参画できる機会を与えることが、必要不可欠と考えられているからだ。

至極しごく当然のはずこの大前提が、日本では通用しない。
民放で最初に放送を開始した日本テレビにおいても、この問題をはらみながらの誕生になっている。
同局は読売新聞グループの支配下にあり、経営面、放送内容などに読売新聞社の意向が極度に反映されることとなった。
さらに、当時の読売新聞社オーナーで日本テレビ初代社長も兼務した正力松太郎は自由民主党政権と近く、多くのテレビ局が新聞社の子会社として設立される方式を確立していったのだ。

建前としては独立企業である放送局(特にローカル局)も、一種の子会社レベルであるのが実態だ。
こうしたクロスオーナーシップの影響から、新聞社>キー局>ローカル局という力関係ができてしまい、新聞・テレビとも方針に逆らいにくいという弊害が生じている。

たとえばローカル紙の横綱である中日新聞は、東海三県(岐阜県・愛知県・三重県)で圧倒的なシェアを持ち、多数のテレビ局(愛知県ではCBC・東海テレビ・テレビ愛知、三重県では三重テレビ)に出資している。
中日新聞出資の有無による処遇の違いについては、テレビ番組欄に顕著だ。
左から順に(NHKの次に)CBC、東海テレビ、テレビ愛知が並び、非出資のメーテレ、中京テレビは右端となっている。
中日ドラゴンズ主催の野球放映権は、NHKを除けば出資しているCBC、東海テレビ、テレビ愛知、三重テレビにしか与えられていない。
そしてこれは中日新聞という一例にとどまらず、ごく一部の良心的メディアを除き、全国津々浦々つつうらうらに浸透している構造である。

世界基準でとらえれば、日本の大手メディアがいかに異常で閉鎖的な環境にあるかが分かる。
テレビ局・ラジオ局が新聞社の意向により動かされるなど、本来であれば言語道断ごんごどうだんである。
その中立であるべきメディアにおいて、新聞社など上位企業の圧力を受ける図式が、完全に確立しているのだ。

「日刊新聞法(日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律)」という法律がある。
株式の譲渡を厳しく制限することを、新聞社だけ特例的に認めた法律になる。
新聞における言論の自由を確保し、報道の正確を保持し、その伝統を守るためには、外部から来る資本の圧力などを十分警戒しなければならないという理由から制定された。

この法律の存在ゆえに、株主が経営者を選任するという企業統治(コーポレートガバナンス)の基本原則はくつがえされ、経営側で株主を選別・あるいは排除できることになる。
法人というより、強大なカネと権力を持った個人商店、あるいは同人紙と言い換えて差し支えないだろう。

「メディア界のドン」「政界のフィクサー」と呼ばれる御年おんとし98歳のご老人がなぜ現役のまま、発行部数トップの新聞社で代表取締役の地位に君臨できるのか。
その答えは、昭和26年(1951年)6月8日公布の「日刊新聞法」という、古い法律の存在にある。
実質的に新聞もテレビも、外部からの浸透工作によって壊れかけているにも関わらずである。

江戸時代以前から存在していた「瓦版」。
江戸時代、街頭で大きな声で読みながら売り歩かれていた「読み売り」の方がよっぽどフェアで、今の時代の視点からも新鮮じゃなかろうか。
(明日続けるかもしれない、じゃないかもしれない)

イラスト Atelier hanami@はなのす


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?