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逝ける人々からのメッセージ④

僕の妻は生まれて間もないころから、病院にとってのお得意様だったらしい。
首の付け根に出来た腫瘍の摘出に始まり、幾度も外科手術を受けたそうだ。

一緒になって30年以上たつが、彼女が病院と名のつく場所に行くことはほとんど無い。車の衝突事故に遭い通ったスポーツ整体(ここの先生のことは極めて高く評価している)と、歯医者さんくらいなものである。
丈夫になったわけでは決してなく、幼少期に身体を”切り刻まれた”という忌まわしい記憶(個人の感覚的なものだが)から、進行性の病になっても医者には絶対行かないとの持論を、一貫して曲げない。
西洋医学全般に対し、根深い不信があるのだ。完全に元気という状態の方が珍しいから、僕も多少のことで動揺はしなくなっている。

それでも平成の終わりごろ、まったく食事が摂れなくなり、3週間近く寝たきりになった時は、さすがにうろたえた。
毎日夕方になると、勤務中のスマホにLINEがくる。(レギュラーサイズの)ペットボトルを2本買ってきてほしいと、たいがいは決まり文句の一行だ。

帰宅し、薄明りのベッドの枕元まで届ければ、毎日少しずつ衰弱していくのが目に見えてわかる。「食事は?」の問いに、弱々しく首を振る。
このまま逝ってしまうのか。さほど切実さも現実感も持てないまま、漠然と思う。
何とかしなければ… その一方で、何ともならないという確信めいたものが頭の中を支配していく。

そうした時、妻にかける言葉を、僕は持てなかった。
「大丈夫だよ」「じきに治るよ」の励ましは、いかにも空々しい。だからと「もうダメかもね」「言っておきたいことある?」なんて問うわけにもいかない。

幸い彼女は3週間を過ぎたあたりから回復し始め、徐々に固形物も喉を通るようになっていった。2024年1月現在、元気とまで言い切れないにしても、日常の生活はつつがなく送れている。

もしあのとき妻が、そのまま逝ってしまったとしたら。
僕はさぞかし、後悔しただろうと思っている。出来ることは沢山あったんじゃないか、救急車を呼んで、無理やりにでも入院させればよかったんじゃないか。悔やみ続ける自分の姿を、思い浮かべる。

でも、もう一度同じ事態が訪れた際に、過去と違う行動が果たしてとれるだろうか。
やっぱり何も、変わり映えしない気がする。他者に命を委ねるのを拒むのが彼女の意思なら、きっとそれを尊重するだろう。僕からして医者には一切いかないし、手遅れになろうとそれが自分の天命と考えている(不慮の事故などであれば、否応なくお世話になるだろうが)。

3年前、メッセージ動画作成の事業を発案(妄想?)したのは、他人事としてでなく、自分のパートナーの存在が大きなきっかけとなっている。
そして退職する少し前、あるきっかけから地元のビジネスプラン・コンテストに、産まれてもいないこの事業を掲げエントリーすることとなった。

イラスト hanami AI魔術師の弟子



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