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読んでは 忘れる

中毒というほどでないにしても、活字がないと落ち着かない。
自分ではこんなところに駄文を公開していながら、読んでいるのはデジタルじゃなく、もっぱら紙の本である。

電子書籍は苦手というより、はなから読もうという気にならない。
書店もだいぶ減っているし、いずれ全てがデジタル本に交代するんだろうけど、とりあえず自分が生きているうちは持ちこたえてくれるんじゃないかと思っている。

いわゆる知識と教養を求めているわけじゃなく、本がないと日常の中に欠落感が生じるようでそわそわするから、何かしら読んでいるに過ぎない。
実用書はもともと好きじゃなく、思想・哲学、サイエンスあたりはまるで頭に入ってこない。最近では、小説しか手にしなくなった。

同じ作者の作品を、集中的に読む。これは自分が音楽や映画を選択するときの態度と、まるっきり逆だ。いま改めて気づいたが、面白い現象である。なんでだろ?

作者をある期間ひとりに固定するのは、それぞれが持つ固有の文体や物語の展開に馴染むためだ。
特に小説は、出だしから流れに乗るまで中々スムーズに進まず、そこで萎えてしまうと途中で放り出したりしがちになる。今の僕には、作家のクセを把握している方が好ましいのだ。

新たな刺激が欲しいわけじゃないから、内容もパターン化したものを選ぶ傾向にある。
これも、音楽や映画とは真逆だ。ありきたりだったり、誰かの亜流とすぐ分かったりするような映像や音は、退屈になって途中でやめてしまう。それが小説だと、なぜか決まった「パターン」の方が安心感につながるのだ。

読むペースや量は、基準が分からないから一概に言いにくいが、読書人としては並レベルか。
500ページの単行本で5日間。たいがいはその半分くらいの厚さが多いから、平均で月に6~10冊くらいのペースだろうか。
お、思ってるより読んでんじゃん。年間にして、100冊程度はいっとるのか。

それとひと昔前には、数冊を並行して読むことが抵抗なくできた。全盛期(?)には自宅に限っても居間用・トイレ用・風呂用・就寝用に分かれ、これに外出用が加わったりした。
この時代はいろんなジャンルを読んでいたし、気に入ったものは何年かおいて、再読したりもした。
今ではそれもアカンようになった。一冊だけを、終わりまでひたすら読む。

『チャリング・クロス街84番地: 書物を愛する人のための本』という小説があって、本の好きなアメリカ人女性とロンドンの古書店の男性との書簡のやり取りが、活字好きにたまらない。
映画化もされていて、こっちは主演がアン・バンクロフトとアンソニー・ホプキンスという最高のキャスティングである。これほど地味で、じわじわ沁みてくる映画も珍しい。

前者が演じる女流作家ヘレーヌは、新書よりも前の所有者の書き込みのある古本を好み、「誰かがめくったページをめくるのが好きです」と、古書店の主人フランクに手紙をつづる。
あー、エエなぁと思いながら、僕自身は本のページを折ったり線を引いたり、書き込みをするなどもったいなくて一切できない。
後になって断片を思い出し、本文にあたろうとしてもそれが何ページだったか分らないから、そのまま放置ということになる。
せっかく読んだのに身につかんじゃないかと思いながら、行いは一向に改まらない。一生このままだろう。

我ながらスゴイと思うのは、読んでる最中はそれなりに頭に入っているようで、読み終わって次の本に移ると、前に読んだ内容をほぼ忘れていたりする。
そんなら読んだ意味ないやんとそしられそうだが、食って出すのも同じじゃないかと開き直る。
自分の中に一度取り入れたものは、それが食い物であれ書物であれ、今後も生き続け活力を生むための不可欠な栄養となるのだから、これでいいのだ。なんて、こじつけが過ぎるか。

本を読むのもモノを書くのも、幼少期から馴染んでいないと成長後にはなかなか身につかないものらしい。
そういう意味では、母に感謝している。小学校に入って間もない子供に、江戸川乱歩『怪人二十面相』を買い与えた最初のチョイスが、適正だったかどうかの評価は別としても。

今日もまた、読んでは忘れるだけのために、書を開く。

イラスト hanami🛸|ω・)و



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