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自分で決めるか 皆で決めるか

日本人は、小さいころから人の迷惑にならないように行動することや、調和を重んじ社会に沿うことを大切にする空気の中で育つ。
自分を周りに合わせ過ぎた結果として、考える能力が育成されにくくなる、と言われている。

「自分自身がどう生きていくか」を決めることが人生にとって重要なのは、その通りだと思う。
そのために幼少期より、自分がどう生きたいかを自分で考え、決める力を育てることが大事であるという発想に繋がっていく。

自分で判断し、自分で決める力のことを「自己決定力」と呼ぶ。子どもが将来、自立して自分らしく生きられる土台を作るためにも、自己決定する力が必要だというわけだ。

いちいちお説ごもっともであり、反論するつもりは毛頭ない。そしてこういう新しい言葉がもてはやされ出すのは、現在がそうなっていない、それではいけないという問題意識からなのも間違いない。

大陸と違い、島国のごく限られた場所に集落を形成していった日本人の歴史において、「調和を重んじ社会に沿うことを大事にする空気」が自然発生していったとすれば、それはうなずける話だ。
そこでは「自己決定力」よりも、集団による意思決定が重要視されていったであろうことも、容易に想像できる。

今から1,400年前に成立した「十七条の憲法」第一条には『一曰。以和爲貴、無忤爲宗。(一に言う。和をなによりも大切なものとして、いさかいを起こさないことを根本としなさい)』とある。

明治元年、「五箇條ごかじょう御誓文ごせいもん」の最初には、『一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公󠄁論ニ決スヘシ(一、 広く人材を集め会議を開いて議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めようじゃないか)』
次の一か条では『一、上下心ヲ一ニシテ、盛󠄁ニ經綸ヲ行フヘシ(一、 身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め、形にしていこうじゃないか)』と続く。

どちらも個をかろんじたりは決してせず、上下の関係も問わない。その上で最後は議論の末に生まれた考えを共有し、一つにまとまってやって行こうと説いている。これって、民主主義の理想形じゃなかろうか。
個人的には戦後、外国人が即席でこしらえたどこぞの憲法よりも、「十七条の憲法」や「五箇條ごかじょう御誓文ごせいもん」の方がはるかに徳と質にまさる最高法規と思うんだが、どんなものだろう。

日本人のDNAの中に、まとまった時にこそ本領を発揮する力があるのだとすれば、舶来はくらい的な発想の「自己決定力」をすべての子供に強要するのは、いかがなもんかと思う。「自己決定力」もまた個人の資質によるものであって、人によって得手不得手えてふえてがあるはずだ。

たとえば100人の子供たちがいたとして、彼ら全員を「自己決定力」ある大人に育てようとするのが正しいかどうか。
指示されて動く方がしょうに合っている子供はいるし、勉強するよりも体を動かす方が好きな子もいる。そんなタイプの子供の意思を本当に尊重するなら、義務教育を終えてすぐに社会に出るのもアリだ。
職人の世界なんて若いほど伸びしろが生まれるし、知識ゼロから就いた米作り農家で、将来の日本の食文化を担ってくれるかけがえのない存在に彼らはなり得る。
むしろそういう人材こそが増えていかなければ、この国に未来はないとさえ言える。

ところがたいがいの親や教師の価値基準には、「せめて高校くらいは」「せめて大学くらいは」の一択しかない。
そんな環境下にある子供たちの「自己決定力」であれば、進学以外に選択肢など見つかるはずもない。

人生の最も多感な時期を、やりたくもない勉強や行きたくもない学校で消耗させた末、興味もなく働きたくもない会社に就職し、それが人生のスタンダードと思い込んでいるとすれば、上司も部下もいつしか「メンヘラ」を発症したって、少しも不思議じゃない。無理が過ぎれば、心身は壊れる。

狩猟民族の文化には、生きること即ちサバイバルゲームの感がある。強き者が力を手にし、弱き者は強者に従う。上に立ちたくばお前も力をつける努力をせよ、ということだ。

農耕民族の日本人は、自然の脅威を前にした人間の無力さを知っている。だから弱い者同士が寄り添い、支え合い、知恵を絞って集団で危機を乗り切ろうとする。

物事の良し悪しを言うのではなく、日本人は島国という特性から、必然的に淋しがり屋なのだ。セリアAやベルリン・フィルのような「自己決定力」の集まりであるよりも、集団が決めたことに従うのが”得意”な民族である。

個々に分断された現代の日本人は、ゆえに脆弱ぜいじゃくである。メンヘラが増えていくのも、当然と言えば当然だろう。
などと、ふと思った。

イラスト hanami🛸|ω・)و



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