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ゆとりを亡くしていく社会

街の片隅が荒れている

 最近、ちょっとした路肩とか空地が荒れているのをよく見かけるようになった。人口減少で空き家が増えているにも関わらず、宅地開発は止まらない。道端の舗装の隙間に雑草が伸びていたり、手のかかる街路樹が伐採されたりして、街の景色がどんどん色を無くして殺風景になっていくような気がする。
 昔は良かったなどと言うつもりは無いけれど、以前ならもう少し周囲を気遣う余裕があったように思うのだ。
 科学技術が進んで世の中は便利になったと思うけれども、その陰で大切なものを失ってきたのではないだろうか。
 狂乱に湧いたバブル期の直前、高度経済成長期も末期の頃は、まだどこか牧歌的であったように思うのだ。
 今よりも便利では無かったし、モノ不足だったことは確かだ。しかし、目の前のことに懸命に打ち込んでいれば、いつか報われる、きっと明るい未来がやってくると感じられた時代だったと思う。
 忙しいと言いながら、道端の草むしりをすることもあったし、街角を掃除する余裕だって、今よりももっとあったような気がする。
 私たちは、いったい何に追い立てられているのだろうか?

https://youtu.be/UzhENvswKjw?si=jC0VPfiQPza4pBbM

 YouTubeにこんなオススメが上がってきたので、視聴してみた。
 テクノロジーが進歩して、便利になっているはずなのに、私たちは少しも楽にならない。むしろ、覚えなければならない知識や、やらなければならない仕事が増えてさえいる。
 機械化や自動化が導入されて半世紀、最近では接客やレジまで無人化が著しい。人の手が必要となる仕事は確実に減っている。それでも人の手が完全に不要になることは無いだろう。設計するにも元となるアイディアが必要だし、システムや仕組みを作るのは人間だ。看護や介護の分野にしても、ちょっとした会話であればAIに肩代わりさせることは可能だろうが、最後はやっぱり人の手が必要だ。ただ、肉体的な負担を軽減するための補助的なシステム…例えば、僅かな力でベッドから車椅子への移動を介助出来るとか、そういった機械的な力を借りて、ケアワーカーの負担を減らす試みは増えてくるだろう。 

今は過渡期なのか?

 戦後の高度経済成長期からバブル期を経て、経済を含め、とにかく右肩上がりを前提としてきた社会が成立しなくなってきている。
 先日、地元の役所を退職した方と話したのだが、昔は人口の増加にどう対処するかが議題となったこともあったという。そのときは、まさかこんな少子高齢化による人口減少社会が到来するとは思ってもみなかったのだろう。
 「団塊ジュニア世代」の出生数の増加を見て、このままのペースでいけば日本の人口は2億人を超える、その時の住宅需要の増加と食糧不足にどう対処するのかを真剣に話し合っていたというのだから隔世の感がある。
 知ってのとおり、団塊ジュニア世代は別名「氷河期世代」でもある。世代人口が多く、進学でも狭き門を勝ち抜くために競争を強いられ、いざ就職の時期を迎えてみれば、バブル崩壊による景気後退で、まともな就職先も無い有様だった訳である。おまけに「自由な働き方」の美名の下、非正規雇用や派遣労働者が増加した世代だ。そのボリュームゾーンも、すでにアラフィフ、その親の団塊世代は後期高齢者の年齢に達する。
 もちろん、団塊世代は高度経済成長期を労働力で支えた立役者であり、その力が無ければ、バブル期までの繁栄も無かっただろう。
 社会全体が、増え続ける労働人口をいかに吸収し、支え、そして余生を送ってもらうか。そのことを前提に構築されてきたことは否めない事実である。しかし、目論見は見事に外れ、第三次ベビーブームは起こらず、全体がシュリンクしてきている状況だ。

人口減少に合わせた制度設計の再構築

 いずれにしても、全てが「増える」ことを前提に社会が制度設計されている以上、人口が減少しているのでは機能しなくて当然なのだ。
 以前、私は、これを「撤退戦」に例えていたこともあった。
 攻めているときは勢いでなんとかなるが、いざ退却となると困難を極める。故に殿(殿)には、実力を持った部隊を配置しなければならないのだと。拡大するのは容易だが、縮小するのは難しい。縮小することが貧しくなることと結びつきがちだからだ。しかし、現代社会を見渡すに、まだまだ世の中は豊かである。リソースが不足しているのではなく、振り分けの仕方を変えることで、人口が減少し、経済全体が縮小しても、実質的な豊かさを保つ方法はいくらでもあると思うのだけど、どうだろうか?
 戦後の復興期を経済成長のモデルケースとして、同じようなことをやれば日本が元気になるなどと考えているのであれば、あまりにも能天気である。半世紀をかけて張り巡らされたインフラも、そろそろ大幅な改修が必要となってきた。それらの維持も課題となる。こんな市井の一個人が書きなぐったところで、何がどう変わるとも思えないが、現代に生きる一人ひとりが少しずつアクションを起こさねば、結局は惰性に任せるしかなくなるだろう。取り返しのつかない事態に陥るまで、何も変わらないのかもしれない。せめて自分の見える範囲ぐらいは平穏に過ごせるようにしておきたいものだ。

 また、好き勝手なことをダラダラと書いてしまった。
 タイトルの「ゆとりを亡くしていく社会」だけど、日本語としては「亡くす」ではなく「無くす」なのだろう。しかし、敢えて「亡くす」と表現してみた。


https://note.com/embed/notes/n9761f11feb4c

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