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春の訪れ

トラックドライバーとしての四半期が過ぎた

 昨年末、右も左もわからずに飛び込んだ物流業界。一週間ほど二人組での研修(?)的な運行を経ての単独運行デビュー…外食産業への食品配送なので、年末年始も通常営業。それでも年越しそばも食べたし、餅つきもやった。初詣にも行ったし、お雑煮も食べた。とりあえず人並みの過ごし方は出来たのかな?
 日付が変わる前に準備を始めて日付が変わる頃にスタート。一般の方々とは7~8時間前倒しで一冬を過ごした。帰宅したら食事して風呂入って寝る。その流れは普通の人とあまり変わらない。ただ違うのは、それがお昼過ぎの明るいうちだということ。
 交通量の少ない深夜の国道にトラックを走らせ、未明に配送センターに到着して荷積み。そこから荷卸しのために各店舗に走る。配送先の店舗はあまり多くはない。春分の日が過ぎてから夜が明けるのが目に見えて早くなった。今では2店舗目の荷卸しが終わるとすっかり夜も明け、早朝勤務に向かう人影が歩道を歩いているのが見えるようになった。
 一日の走行距離は約300キロ超。距離としては中距離運送ってことになるのだろうか。毎日のように山形県の日本海側から、東北最大の都市「杜の都」仙台市まで走る。運転そのものは好きだから、トラックの運転も苦にはならない。それこそ深夜から未明にかけての幹線道路は物流トラックの世界だから一般車両も少なくて、むしろ走りやすいぐらいだ。

トラックを走らせながら

 郊外から市街地へ。そしてまた郊外へ向かってハンドルを握る。
 40年以上前になるだろうか。今は亡き父が仙台市郊外の病院に入院していたことがあった。配送先の一か所が近くにあり、そんなことに思いを馳せる。あの頃はまだ住宅もまばらで、いかにも郊外といった趣であったのだけど、すっかり宅地開発が進み、丘の上までぎっしりと家が建っている。よくもまあ、こんなに詰め込んだものだと思うほど、見渡す限りの斜面が家だらけだ。上のほうなんて半ば登山じゃないかと思うほどの高さだ。郊外にも造成地が開発され続けているのを見ると、こんなに住宅需要があるのだろうかと余計なことを考えてしまう。少子化だの人口減少だのと言われて久しいが、地方都市の郊外に広がる光景はバブル期の続きを見ているようだ。経済が永遠に右肩上がりだと思えた頃ならいざ知らず、今の現状でニュータウン開発のようなことを続けていったところで、この先どうするつもりなのだろう?高度経済成長期、首都圏近郊に開発されたニュータウンでは住民の高齢化が進み、差し詰め限界集落のようになっているところも少なくないという。半世紀以上前の高度経済成長期に東京で行われたことが、順送りで地方都市にも巡ってきたのだろうか?今さら開発したところで、その先に何が待っているのだろう。

もしかしてバブルの再燃を狙っているのか?

 新型コロナウィルスの流行によって、生活様式を含め、社会が様変わりしたように思うのだけど、東京オリンピックから大阪万博の流れを変える気は無いらしい。もしかしたら、その後にはバブル期の繁栄が再来するとでも思っているのか?
 そもそも不動産が内包する価値の過大評価と妄信から市中銀行が融資を拡大し、市場に余剰資金が出回り、土地や資産が持つ本来の価値を見失った末に起きたのがバブルではなかったのか?市中銀行が信用創造によって融資金額を拡大し、国が発行する以上の通貨が市場に溢れていたのだから、そりゃ税収も増えるわな…と。国が発行する以上の通貨が民間の信用創造によって流通するようになって、初めて国家財政も黒字化が図れるのであって、現状のように国が財政出動する訳でもなければ、市中銀行が融資を増加させる訳でもないのなら、市場に出回る通貨量は不足するのが当たり前。先日、日経平均株価が4万円の大台を超えたと報道されたが、あんなものは実体の無い額面上のものであって、実際には少しも円安は改善されていない。貨幣価値が下がり続けているのだから、輸入に頼る石油や鉱物資源は値上がりが著しい。円が安いのだから輸出産業にとってはチャンスのはずなのだけど、ほとんどの生産拠点を海外に移してしまってるので、純粋に国内生産出来ている製品はほぼ皆無に等しい。半世紀の間にあらゆる状況が変わってしまっているのに、半世紀前の成功体験をなぞるようなことしかやっていないように思える。少子高齢化も進み、この国はどこに向かうのだろう。

人口動態と社会制度設計のミスマッチ

 健康寿命が延びて高齢者が増え、人口動態は激変した。人口も経済も右肩上がりで増加が見込めるのであれば「イケイケ」の方策で突き進めばいい。誰がどんなことをやっても上手くいくに決まっている。ところが現代は人口減少社会、いわば後退戦だ。これをソフトランディングさせるのは極めて困難である。膨らみ過ぎた社会をどのようにシュリンクさせられるかが課題だと思う。
 そろそろ団塊世代の全てが後期高齢者に仲間入りする。一番の人口ボリュームゾーンが、手のかかる年代に突入するのだ。未来を担うはずの若者たちは、その半分から三分の一しかいない。若い世代に全てを丸投げしても解決は困難だろう。
 「失われた30年」を取り戻すことなく国全体が沈んでいくのか、それともこの国に住む一人ひとりが新しい方向性を見出し、従来の尺度では測れない豊かさを手に入れるのか、それは年代に関係無く全ての人が自分の問題として考えなければならない課題だと思う。狂瀾の事後処理が上手くいくかどうかは、国民一人一人に委ねられている。


 春の訪れを感じながら、そんな妄想ともつかぬ思いを巡らせ、今日もハンドルを握るのだ。

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